シンガポール通信ー「iPadは万能ではない」に反論する

日経ビジネス7月26日号に「iPadは万能ではない」と題する安藤忠雄氏の寄稿が載っている。安藤氏は私の好きな建築家であるが、この一文には異論があるので、私の意見を述べたい。

氏はiPad電子書籍としての機能を批判しておられる。そこで、ここでもiPad電子書籍としての機能だけに注目する事にしよう。

安藤氏の批判の部分を引用すると以下のようになる。「iPadで本を読むのは難しいと思う。(中略)1冊1冊の本は単純な文字情報ではなかったろう。装丁や大きさ、内容、匂いに至るまで、一個の人格に似たものを持っており、データ化は不可能だったはずだ。(中略)こうしたアナログな感覚は、コンピュータでは決して再現できない。iPadで仮に、電子書籍の好きなところに線を引けるソフトが開発されたとしてもこの体験は置き換えられない。iPadが扱うのは、結局、本をディジタル化した情報にすぎないからだ。デジタル化することで、確かに便利になるかもしれない。しかしその過程で喜びや怒りといった感情が、もっと言うと人間の生きる力のようなものがそぎ落とされる気がしてならない。」

私はiPadはまだ購入していない。そのうち購入しようかとは思っているが、なければ困るような電子機器ではないと思っている。しかしながら、安藤氏のような感情的な批判に対してはいささか反論したくなる。この手の紙の本に対する愛着に基づいた電子書籍に対する反感は他にも随所で見かけるので、それらに対しても同時に反論したい。

さて安藤氏の意見で最も気になるのは、紙の本に対する愛着、特に紙というメディアに対する愛着が極めて強い事である。確かに紙と本との結びつきは極めて古い。西洋ではエジプトのパピルスに始まり、その後羊皮紙が使われるようになり、15世紀の印刷術と共に現在の紙を使った本が本格的に普及するようになった。

一方東洋、日本では印刷術の発明以前の7世紀頃には既に紙を使った書物が使われていた。その意味では、日本人は特に紙というメディアと本との結びつきに長い歴史と文化がある事は確かである。

しかしその愛着と本の内容は本来関係がないはずである。「装丁や大きさ、内容、匂い」というのは紙というメディアを使った本が持つ特徴であり、それをどう思うかはあくまで本人の好みの問題ではないだろうか。紙の本に対する愛着のあまり「一個の人格に似たものを持っておりデータ化は不可能だったはずだ」というのは、行き過ぎた愛着といえないだろうか。

本というのはあくまで内容に意味がある訳である。いいかえると、文字の並びが情報を持っているのである。それが紙というメデイアを使っているか、電子書籍というメディアの形態を取っているかはあくまで二の次のはずである。

少し乱暴かもしれないが、食事に例えてみよう。食事は体を維持するための栄養をとる事に本来の意味がある。もちろんそれだけでは面白くないので、種々の形の料理として楽しむ訳である。国により文化により種々の料理があり、それが料理文化に高められている事はこのブログでも既に書いた。

しかしそれはあくまで料理を楽しむことそのことに意味があるのであって、栄養分を取るという点に関しては、種々の料理の間に本質的な相違はない。自分の好きな料理を楽しめば良い訳である。それを、特定の料理の好きな人がその料理に対する愛着のあまり、他の料理に対し「それは食事ではない」といって非難するのはお門違いというものである。

しかし、安藤氏は主張しているのはまさにそのような事である。本の内容を紙の本で楽しもうが電子書籍で楽しもうが本質的には何の違いもないはずである。

電子書籍の好きなところに線を引けるソフトが開発されたとしてもこの体験は置き換えられない」というのも紙に対する愛着に過ぎないのではないか。気に入った箇所、おぼえておきたい箇所にマーキングをする事その事に意味があるのである。この言い方だと、電子書籍上でマーキングをする事には意味がないと言っているように聞こえる。

iPadが扱うのは、結局、本をディジタル化した情報にすぎないからだ」という表現もおかしい。本は言語を表現するための手段である。そして言語は文字というディジタル記号から構成されており、元々人間の考え・感情を表現するための手段である。たしかに考え・感情をディジタル化して言語で表現する事により、その段階で落とされる情報がある事は確かである。

しかしながら言語はその欠点を補ってあまりある利点を持っている。すなわち、言語があって初めて人間は自分の考え・感情を表現しさらにそれに基づいて思想というものを生み出す事が出来る。さらには人々の間で考え・感情を共有ししかも時代を超えて伝える事が出来るのは、まさに言語の力である。

(続く)