シンガポール通信ー「iPadは万能ではない」に反論する2

安藤忠雄氏のiPadに代表される電子書籍に対する批判について、引き続き考えてみよう。

「こうしたアナログな感覚は、コンピュータでは決して再現できない。(中略)デジタル化することで、確かに便利になるかもしれない。しかしその過程で喜びや怒りといった感情が、もっと言うと人間の生きる力のようなものがそぎ落とされる気がしてならない。」と安藤氏はiPadに対する批判の後半で書いている。

ここにはある意味で、アナログ派からディジタル派への感情的なものも含めた反感・反論が凝縮されている。いささか感情に流れている面もあるので、少し冷静に考えてみよう。

ディジタル化する事は、現在のコンピュータ上で情報を記憶したり取り扱ったりするために必要であるから行うのであり、別にそれ以外の大きな理由がある訳ではない。その大きな利点は、コンピュータを用いる事によって情報の扱いやその応用範囲が格段に広がる事、いいかえると安藤氏の指摘するように「便利になること」であろう。

そしてその過程で落とされる情報がある事も確かである。したがってディジタル情報を利用する時はディジタル化によって落とされる情報のある事を理解しておく事は必要であろう。

しかし、コンピュータで扱う事による利便性がその欠点を補ってあまりある場合、ディジタル化を行う事は別に間違った事ではあるまい。「その過程で喜びや怒りといった感情が、もっと言うと人間の生きる力のようなものがそぎ落とされる気がしてならない」はあまりにも感情的な表現である。

ディジタル化することで情報は量子化せざるをえない。したがってその過程で微細な情報は落とされる。しかしそれが、喜びや怒りのような感情、さらには生きる力と常に結びついているわけではないだろう。それはあくまでケース・バイ・ケースである。

メディアはそこに含まれる情報(コンテンツ)とそれを運ぶ媒体(狭い意味のメディア)から構成される。本で言えば本の内容がコンテンツであり、紙が媒体である。そしてメディアの本質はあくまでコンテンツにある。

このブログでも書いたが音楽の場合を考えてみよう。音楽を運ぶ媒体はここ数十年でレコード・CD・ダウンロードとめまぐるしく変わって来た。そして文化という面から言うと、圧倒的にレコードが文化の域にまで達していた。

漆黒のレコード板、美しいラーベル、そしてレコードから音を拾いとるプレーヤー、さらには各種のアンプやスピーカーなど、レコードというジャンルを超えてそれはオーディオという文化を構成していたのである。

しかしながら、それらの文化はレコードの衰退と共に消え去ってしまった。なぜか。それは人々がレコードやオーディオに本質があるのではなく、そこにおさめられている音楽にこそこのメディアの本質がある事を理解し、媒体は単なる情報の運び屋に過ぎない事を知っていたからである。

少し冷静に、本を電子書籍として扱う事の利点を考えてみよう。電子書籍の特徴の第一は利便性である。ともかくも多くの本が1つのリーダー(iPadキンドルなど)で扱える事である。

私は旅行の際には必ず何冊かの本をスーツケースに入れるが、長い旅行だとかさばるしどの本を持って行くべきかにずいぶん悩む事がある。電子書籍ではそのような悩みから解放される。1つのリーダーさせあれば任意の本を読む事が出来るというのは、電子書籍の大きな利点であろう。

また紙の本はその保存場所が大きな問題となる。たしかに広い書斎スペースがあれば、本棚に自分の書籍を自分の好みに応じて並べておく事は、自分自身の知性のあかしにもなるし、分野ごとに整理しておけば一覧性の点からも便利であろう。しかし広い書斎を持つ事はごく一部の人たちに許された贅沢である。私などはおく場所がすくないので、結局古い本から廃棄したり古本屋に売却するという方法をとらざるを得ない。

そしてダウンロードという手段によって容易に新しいコンテンツにアクセする事が出来るのも大きな魅力である。読みたい本があっても、本屋に行くのが面倒であったり海外出張中などは、その場でその本を読めないという事は多い。電子書籍はそのような不便さを取り除いてくれる。

さらには著作権の切れた多くの古典がフリーで手に入るというのも魅力である。特に私は学生時代以降は論文以外は英語の書籍をあまり読む機会がなかったので、iPadを買ったら再び洋書を読む事にチャレンジしてみたいと思っている。

私は紙の本の手触り、読みやすさを否定している訳ではないし、紙の本の方が扱いやすい場合が確多い事も認める。そしてこれまでの長い紙の本の歴史からも、早急に紙の本がなくなるとも予想していない。

しかし同時に、上に述べたように電子書籍は従来の紙の本にない利点を持っているのである。時と場合に応じていずれの形態を利用するかは、まさに人々の自由であろう。単にこれまでの習慣や愛着に基づいて新しいメディアを非難するのは、知識人の行為とはいえないのではないだろうか。いずれを利用するかは人々の選択にまかされているのであり、その結果として紙の本が衰退して行くとすれば、それは歴史の流れとして受け止めざるを得ない事であろう。