シンガポール通信ー夢と自由意志2

前回は、夢の中では自由意志は働いていないようであるという事を述べた。今回はその続きで、目覚めている時と夢の中での自由意志の違いを考えてみよう。

自由意志の問題を考えるとき、私自身の子供の頃のある経験を思いだす。多分中学校の何年生かの頃だったろうと思う。その頃の私は当時の多くの子供達の例にもれず大の巨人ファンだった。まだ長嶋茂雄が巨人に入って何年も経たない新人の時代だったと思う。

ある日の試合で、9回裏の土壇場で巨人が阪神に逆転で敗れるということがあった。ほとんど勝利が決まっていた土壇場での逆転負けである。悔しくて悔しくて、なかなかその夜は寝付けなかった。

悶々と寝返りを打っているうちに、なぜそんなに悔しいのだろうという考えが浮かんだ。巨人が勝っても、本来自分には何の関係もないではないか、なぜそんなに悔しいのだろう。今でこそそれがファン心理というものだという事がわかっているが、何せまだ当時は多感な中学生である。この疑問を考えれば考えるほどわからなくなって、そのうち悔しさを忘れるほどであった。

そして私が出した結論は、自分が巨人ファンなのは、自分と巨人に直接の何かの利害関係があるからではない、たまたま何かのきっかけによってなったに過ぎないということである。これは私にとっては驚きの結論であった。と同時に、それなら自分のひいきの球団を変える事も可能なのではないだろうかという考えも浮かんで来た。

そこで私は自分のひいき球団を変えてみようと決断した。どうせ変えるなら、巨人を逆転負けに追いやった阪神にしてみよう。ということで、その日から私は巨人から鞍替えして阪神のファンになるべく行動を開始した。

具体的に行ったのは、新聞のスポーツ欄を見て阪神の試合の結果や選手の活動に注目したり、ラジオで阪神の試合を聞くようにするという事である。当時のニュースソースというのはその程度のものであった。

とは言っても、それはかなり努力を要することであった。関西は阪神ファンが多いが、それは特に阪神間においてであって、私が住んでいた姫路からバスで1時間も山間地に入った田舎町では、巨人ファンの方が圧倒的に多かった。友達同士の雑談でも、巨人に関する話が頻繁に出てくる。そのような話をそれとなくやりすごすのは、子供心にも結構ストレスのかかる事であった。

ともかくもそのような行為を続けていると、不思議な事に徐々に阪神の選手達に愛着がわいて来て、さらに阪神の勝ち負けに興味がわいてくるのである。結局、半年近くかかったと思われるが、私は見事に巨人ファンから阪神ファンに鞍替えする事に成功した。

今では私は、押しも押されもしない阪神ファンである。1985年の21年ぶりの阪神の優勝の際にはNTTの研究所に所属していたが、周りの阪神ファンと金を出し合って、研究室の仲間達を料亭に招待したり、雀荘を借り切って麻雀大会を開いたりした。

まわりの招待された仲間達は、「自分のひいき球団が優勝してもこんなことはしない、阪神ファンは変わっている」といって半ばあきれ顔であった。

だいぶ脱線してしまったが言いたかったのは、人間は周囲の状況や自分の感情などに影響されやすく、それらに影響されて行動している面が多いが、同時に確かに「自由意志」というものを持っているという事である。そして、周囲の状況や自分の感情を押し切ってでも、自分の意志を通そうとする力を持っているという事である。

たかがひいき球団の鞍替えという行為でもって自由意志の存在の証明をしてもらっては困るという苦情が聞こえて来そうであるが、私にとってはこの体験は強烈な印象を私の中に残している。

もっとも逆にいうと、自分の人生で周りの状況を押し切って自分の意志を貫き通したという経験において、このひいき球団の鞍替えを越える経験がないということになるわけで、恥ずかしい次第ではあるが。

さて再度最初の話題に戻ると、夢の中では確かに意識は働いているのであるが、このような自由意志を貫くという経験をすることはないということである。(もしそのような夢を見た人があればぜひ教えて頂きたいが。)

意識はあるが自由意志はない状態が存在する事を認めると、どうも唯心論の立場からは苦しい事になる。意識が、脳という一種の情報処理機械が、入力とプログラムに従って自動的に処理を行っているその時々の出力結果に過ぎないという考え方が出来るからである。

とはいいながら、その意識の高まった状態としての自由意志がある事は認めざるを得ないのではないだろうか。そして自由意志は、コンピュータというオートマトンの仕組みからはどうしても説明できないものである事も確かであろう。

結局人間の心は、無意識、意識、そして自由意志が緩く連続的につながったものと理解するのが適切なのかもしれない。これではとても結論とは言えないが、夢と自由意志の問題はさらに深く考える必要があることではないだろうか。