シンガポール通信ー夢と自由意志

映画「インセプション」と夢の関係について考えて来たが、今回は夢と意識さらには自由意志の問題を考えて見よう。

前にも書いたように、意識というのは現時点では科学にとっては何とも取り扱いにくい存在である。意識こそが人間にとって特有の現象であるとする唯心論的考え方と、意識は情報処理機械としての脳が処理している情報の単に上位のものもしくは過剰なものに過ぎないとする唯物論的もしくは唯脳論的考え方が対立している。

この問題の厄介なのは、いずれにしても意識があくまで主観的なものである事である。科学は客観的にかつ分析的に対象を捉えることによって大きな成功をおさめて来たが、その客観的かつ分析的に対象をとらえているのはあくまで主観としての意識なのである。

主観が意識以外を対象としている限り、多くの人が外界に対し同じ主観を共有しているということから、対象を客観的にとらえることの正当性が得られるであろう。しかし、その主観が意識という自分自身に向かった時、客観性は失われそれと共に科学として積み上げられた方法論を適用する事の有効性が失われるのではないだろうか。

ここに堂々巡りの原因があるので、私は意識を正面から科学が取り上げるのは当面は差し控えた方がいいように思うのであるが、どうだろうか。

それはともかくとして、夢の中での意識および自由意志について考えてみよう。ここで自由意志というのは、まあいわば意識の明確なものであって、「自分の力で物事の選択や決断が出来る意識」であるとでも定義しておこう。

さて夢の中で自分自身は意識を持っているだろうか。これは当然持っているという答えになるだろう。夢の中でも自分は自分であり、現実世界の自分自身の性格を引き継いでいることはたしかである。また、現実の自分との連続性もある。

この連続性は、夢の中での自分と目が覚めたときの自分が連続してつながっているという感覚である。つまり目覚めたとき、「ああ夢で良かった」とか「もっと夢を見ていたかった」などと思うのは、連続性があるからであろう。もっともそうでないと、目が覚めたとき夢をおぼえている事はできないだろう。

しかしながら、どうもこれは一方的な連続性のようである。つまり逆に目覚めている自分が夢の中の自分になったとき、「ああ今自分は夢の世界に入ったのだ」という意識を持つ事はないのではないだろうか。

もっとも、夢の世界に入る度に同じ世界に入り込み、そこでの出来事に連続性がある夢などという事も聞く。しかしながら、夢の世界にいる時夢を見ているのかなというかすかな感覚を持つ事はあるかもしれないが(それは私自身も経験がある)、自分が夢の世界にいる事を明確に意識することはないのではないだろうか。

という意味では、夢の中の意識は現実世界の意識に比較すると、かなり浅い意識なのである。そういえば、夢の中の自分はどちらかというと外部の状況に従って動いているのであり、外部に対して自分で決断したり、外部の状況を変えようとする強い意志や行動をすることがないのではないだろうか。

私自身の夢の経験でも、自分の決断・判断によってそれ以降の状況が大きく変わるという夢を見た事はない。(そのような夢を見た事がある人はぜひ教えて頂きたい。)つまり意識はあるのであるが、その意識は自由意志にまでは高められていないようなのである。

もちろん現実の世界においても、特に仕事が関わると私たちが本当に自由意志で決断・判断が出来るかというとそうではあるまい。周りの状況によっていわば判断させられているという事は多い。

しかしながらもっと些細な事、例えば今日の夕食はどうするとか、特にいずれのファンでもないプロ野球チームの試合を見るときどちらを応援するかを決めるなどの場合などには、明らかに自分の意志で決める事が出来る。

もっともそのような場合の決断も、実は好き嫌いなどの状況によって事前にほぼ決まっているのだという人もいるだろう。しかしながら、自分が自由意志を持っている事を試したい場合は、自分の好みをおしきってまで自分の意志で無理矢理他のメニューを選ぼうとすれば選ぶ事は可能である。

(続く)