シンガポール通信ー「インセプション」と夢

映画インセプションを見ながら、夢について考えた。本当は映画を見ながら他の事を考えるのは監督・俳優に失礼であるが、前回も書いたようにストーリー構成が少々複雑で感情移入しにくい映画であったため、おもわず夢について考えてしまった訳である。今回はインセプションで描かれた夢について考えてみよう。

まず最初に思ったのは、他人の夢の中に入ったり、複数の人が夢を共有する事が可能だろうかという事である。(他人の夢に入り込む事と複数人が夢を共有する事は同じであると考えられる。)この様な状況設定は多くのSF小説SF映画で描かれている。

例えば映画「マトリクス」では、コンピュータがネットワークでつながれた人々の脳を操り、現在の現実の社会に人々が生きているような幻想を与えているが、実際には人々は睡眠状態にされており、コンピュータが人々を支配している世界が描かれている。

夢が私たちの脳が創りだした幻想であることは、既に脳科学などによって明らかにされている。しかも、それにもかかわらず夢の中の自分はそれを現実だと思い込んでいる。五感を通して得られた外界の世界と夢が記憶に基づいて創りだした世界が区別できない事は、私たちの感覚・思考が結局は脳が創りだした物である事を示している。このことは唯物論もしくは唯脳論等と結びつきやすいのであるが、それは後で議論する事にしよう。

しかし問題は、複数の人が夢を共有できるか否かということである。上に述べたように、脳が現実そっくりの幻想を創りだす事は可能であるにせよ、それが脳のどの部位でどのようにして行われているかという仕組みはまだわかっていない。従って、脳が創りだす幻想を細部に至るまで操作するには、脳の働きを詳細に知る事が必要である。

残念ながら現在の脳科学では、そこに至にはまだまだ遠い道のりがある。現状では、脳のどの部分がどのような処理を行っているかを、fMRIなどの脳機能測定装置を使って少しづつ学び始めたという段階である。

しかもそのような処理が行われている部位や処理の詳細は、人によって細部が異なっている可能性が大きい。ということは、他人の夢を操作したりもしくは複数人に夢を共有させたりする技術の実現というのは、当面無理であろうと考えられる。

もちろん脳の特定の部位にある刺激を与えるなどで、簡単なレベルでの夢の操作は可能である。しかしそれは例えば心臓の上に手をおいて眠ると心臓にかかる圧力によって苦しい夢を見るというレベルの操作とあまり変わらないレベルのものであろう。

最近ブレイン・マシン・インタフェース(BMI)という研究が盛んになりつつある。これまでコンピュータや他の機械を操作する際には、私たち人間が手作業で(もしくはあらかじめ手順をプログラム化しておく事により)行うしかなかった。それを、脳活動を上に述べたfMRIなどの機械類で測定する事により人間の思考を読み取り、それで直接コンピュータなどを操作しようと言うものである。

現在は「左・右」「はい・いいえ」などの簡単な指令は、脳信号を測定する事によってある程度可能である事が示されている。この実験結果に基づいてマスコミなどは、あたかも近い将来に人間の思考を機械で読み取る事が可能であるかのように喧伝している。

しかしそれが誤りである事は上の夢との関係からしても明らかであろう。「はい・いいえ」の区別をする程度の事は、夢で言えば、心臓の上に手をおいたりして寝る夢を制御するのとレベル的には同じであろう。

二者択一の選択の先には、頭の中で考えた数十個、さらには数百個の選択を正しく測定する事が要求されるであろう。しかしそれが簡単にできるとは思えない。第一人間はすぐ他の事を考えてしまう、つまり雑念が入りやすい存在である。それらは雑音として測定結果のじゃまになるだろう。

雑音が入らないように、つまり雑念が入らないように特定の思考だけを考えろというのは、なんだか被験者に心身統一の状態つまり座禅の状態を強いる事になる。被験者にまず座禅の修行をつんでもらい、心身統一の技術を身につけてから実験に臨んでもらうのでは、コンピュータの制御の研究をしているのか禅の研究をしているのかわからなくなってしまうのではないだろうか。

BMIの研究自身は有意義であるにせよ、その応用に関しては、マスコミも研究者自身も一般の人たちにあまり先走った期待を持たすような事は慎むべきであろう。