シンガポール通信ー「インセプション」と夢2

さて、複数の人の間での夢の共有は技術的に当面難しいと書いたが、見方を変えると既に実現しているという事も出来る。

複数の人の間の夢の共有を「複数の人による仮想世界の共有」と言い換えてみるとどうだろう。そうするとこれはすでにオンラインゲームにおいて実現されているのである。

考えてみれば、インセプションで描かれている複数人の間の夢の共有とオンラインゲームにおける複数人の間の仮想世界の共有は、驚くほど状況が似ている。

夢を共有するには、まず夢を共有する人たちがネットワークでつながれている必要がある。つぎに参加者が共有する夢を生成し、その中でのストーリーの進行を制御するコンピュータが必要である。当然、参加者の行動によってストーリーに変更を加える必要があるから、コンピュータはそれを行う必要がある。いわゆるインタラクティブにストーリーを生成する機能を持つ必要があるのである。

ここでの夢を仮想世界もしくはゲーム世界と読み替えると、それはまさにオンラインゲームで行われている事である。すなわち夢・仮想世界の共有は見方を変えるとオンラインゲームで既に実現されているのである。

もちろんオンラインゲームで描かれている世界は、インセプションで描かれている夢の中の深層心理の世界とは異なると主張されるだろう。しかしながら、なぜ人々がオンラインゲームに夢中になるかと言うと、オンラインゲームの多くではファンタジーの世界が描かれており、その中に入って種々の体験をする事を人々が望んでいるからではあるまいか。

ファンタジーの世界言い換えると神話の世界は、人々の太古からの経験が心の奥底に積み重ねられたものであり、人々によって共有された社会的な深層心理にあるストーリーであるといわれている。

とするならば、それは夢の一つの典型的な種類であるという事も出来る。そうしてみると、夢の世界に浸りきり現実世界に戻る事を拒んで死を選んだディカプリオ演ずるコブの妻ロブは、ゲーム世界に浸りきり現実と向き合う事を拒むいわゆる「引きこもり」の若者と重なる事になる。

インセプションを見ていてもう1つ興味深かったのは、夢の中でさらに夢を見るという入れ子構造が描かれている事である。夢の中では時間が早く経過する、さらには夢が深くなるほどその世界が抽象的になる、などが映画ではうまく描かれていた。

実は私も一度だけであるが、夢の中で夢を見た経験がある。まだ小学校の頃だったと記憶している。崖から自分が落ちてゆく夢を見た事がある。恐怖でいっぱいになって目が覚めると、縁側でうたた寝をしていた。ああ夢でよかったと思った事をおぼえている。ところがそこで宿題を明日学校へ持って行く宿題をやっていない事に気がついて、強い焦燥感に襲われた。その時さらに目が覚め、気がつくと寝床の中で寝汗をかいていたというのが夢の内容である。

一段目の縁側で寝ていた夢に現れた風景は、確かに自分の家の縁側であったと自分では意識していたが、思い返してみればその風景は具体性に欠けるところがあった。さらに二段目の夢になると、崖から落ちて行くという単純な状況で、色彩もはっきりせず白黒映画に近いような感覚であったとおぼえている。

多分、現実の生活で何かし忘れた事があったのがストレスとなっており、一段目の夢では宿題をし忘れたという夢となって現れ、二段目の夢ではさらに抽象的になって崖を落ちてゆく夢となったのであろう。

それにしても私にとっても夢の中の夢という経験をしたのはこの1回だけなので、それほど起こりやすい現象とは思われない。インセプションの原作者もしくは監督がそのような経験をした事が多いのだろうか。

一方で演劇の世界では、この入れ子構造は「劇中劇」として、能やシェークスピア劇でよく使われている。ストーリー進行に厚みを持たせることのできる1つの方法ではある。

ともかくもインセプションでは夢の世界が二重にも三重にもなっており、その最も深いレベルは虚無の世界として描かれている。そしてそこに落ちてしまった渡辺謙演じるサイトーを、ディカプリオ演ずるコブが助けに行くというのも、ストーリーの重要な一部を構成している。

何度も言うようであるが、映画インセプションのストーリー構成の複雑さは大変楽しめるのであるが、一方で感情移入という観点からすると、感情移入しにくい映画ではある。