シンガポール通信ー東洋思想と西洋思想2

西洋における二元論的考え方に対して、東洋では基本的には二元論的考え方をしてこなかったのではないだろうか。「陰陽思想」のような二元論的考え方があるにせよ、それは陰と陽を相対立するものとしてみるのではなく、それらの調和が重要である事が常に意識されて来たのではないだろうか。

そしてさらに重要なのが人間と自然との一体感を主張する思想である。老子荘子を読んでいると、常に人間と自然とが一体になる事の重要性が説かれている事に気付かされる。

したがって、西洋と東洋の最も大きな違いはやはり「二元論」的考え方と「一元論」的考え方の相違だという事が出来る。
しかし本当にそうだろうか。こここそは、実は教科書的にそのまま頭に入れてはいけないところであり、自分自身の頭でそして原典にあたることにより確かめる事が必要ではないかと私が思っているところである。

専門分野に携わる事の時として怖いところは、その分野の基本的な考え方を最初に教えられ、それに基づいてすべての考えを敷衍して行くという立場を取らされる事である。もちろんそれぞれの専門分野の基本的な考え方というのは、長い時間をかけて多くの叡智により築きあげられたものではあろう。

その立場に立ってそれ以降の考えを敷衍して行く事は、効率的であり賢い方法である事は間違いない。しかし、そのために既に出来上がった考え方にとらわれ新しい考え方が出来なくなる恐れもある。

私のような哲学の素人がいろいろと勝手な事を考えているのは、現在の哲学の学問の状況などというものは全く知らず、単純に古典にあたりそこから自分の考えを広げて行っているという、いわば「怖いもの知らず」のところがあるのだが、まあそのような立場も許されるのではないだろうか。

さて私の直感を言うと、西洋二元論が常に要素間の対立を考えているかというと、そのような事はないと思う。プラトンを読んでいても、彼が理性と感性の高い立場での融合を理想としていたということを私は直感として理解できる。

ところが、彼が理性の感性に対する優位性を説き、時にそれが高じて、感性に訴える芸術を非難し詩人追放などを叫ぶもので、読んでいる読者はそれに惑わされてプラトンが感性を不要なものとして考えていたと思ってしまうのである。決してそのような事はない。

芸術が感性に直接訴えるものであるために、質の低い芸術が感性をそしてまた理性をも堕落させる危険性ということを私たちは知っている。プラトンが非難しているのはそのような低俗な芸術であり、低俗な詩人の追放を主張しているのであろう。

このような感想を持つのは、やはりプラトンを解説書ではなく原典(もちろん翻訳)にあたって、その行間を読み取ってこそ感じ取れるものではないだろうか。

脱線するけれども、古典の重要性、原典の重要性ということを学生時代に習ったものであるが、当時はよく理解できなかった。最近やっと、解説書では伝わらない事が多い事に気付き始めた次第である。残念なのは世の中にあふれている本の大半が、解説書でありもっというとハウツーものであることである。最初は大変かもしれないが、やはり原典に当たる事が重要である。

カントを読んでみても、彼は何よりも人間がよって立つべき理性の働きを述べているのであるが、それと同時に理性が従うべき「道徳的規則」の重要性を指摘している事に気付く。言葉だけ聞くとなにやら学生時代の道徳の時間を思い出すが、ここでの道徳的規則というのは、極めて高次のレベルのものであり、いってみればそれは東洋哲学における道(タオ)と同じものではないかと私は思っている。

なによりも西洋哲学にはヘーゲルの提唱した止揚アウフヘーベン)という考え方があるではないか。もっとも、ヘーゲルはまだ読んでいなくて、カントを読んでから取りかかろうと思っているので、これは単に大学時代に習った事を言っているに過ぎないのだけれど。

(また続く)