シンガポール通信ー週末カントを読む3:神の存在証明

さてカントの実践理性批判を読んでいて面白いと思ったのは、神の概念の取り扱い、特に神の存在証明を行っている事である。

神不在の現在に生きる私たちは、よほど信仰深い人を除いて、「神は存在するか」と聞かれても答えに窮するだろう。そのような事は考えた事もないというのが、大半の人たちにとって正直なところではあるまいか。その事がなぜかはおいておくとして、神は太古から人間にとってある意味で親しい概念であったことは確かである。

ギリシャ時代には、ゼウスに代表されるオリンポスの神々は、人々にとって身近な存在であった。強大な力を持ってはいるが、同時に人間と同様の欠点も持っており、神同士のいさかいがあったり、失敗をしたり、人間の行為にそれとなく介入する存在として、人々は神々の存在を何の疑いも持たずに信じていた。

日本においても、天照大神を代表とする複数の神々が高天原に住んでいる様子や神々のふるまいは、ギリシャ神話の神々のふるまいと良く似ている。人間の考える事は世の東西を問わず良く似ているのかもしれない。

さて西欧に話を戻すと、ローマ時代もギリシャ時代の神々が引き継がれたが、その後キリスト教が勢力を持ち、ギリシャの神々を追放して一神教の時代が来た。キリスト教における神は、世界を創造しただけではなく、人々が日常の生活において従うべき道徳をも説くことにより、人々の日常の生活と極めて密接に結びつき、その分大きな影響力を持つ事となった。

デカルトの「我思う、ゆえに我あり」が西欧哲学史の中で大きな転換点であった事を前回述べたが、興味深いのは、すぐにその後でデカルトは神の証明を行っている事である。すべてを疑い先入観念を捨て去った時に、自分の理性の存在こそ疑えない事実であるとして、そこから哲学を開始したデカルトが、その次に行った事が神の存在証明であるというのは何とも奇妙である。

すべてを疑ったとしても神の存在は疑えないとデカルトは言うのであるが、もともと神の存在に無縁な大多数の現代の私たちにとっては、そのような論理展開はなんとも納得がいかない。しかしそれは逆に言うと、それだけキリスト教の力が大きかった事、神の存在を明言しないと危険思想と見なされた事を意味しているのではあるまいか。宗教改革がおこってから1世紀を経ているとはいえ、やはりまだデカルトの時代にキリスト教が人々の精神に与える影響力というのは大きかったのだろう。

別の見方をすると、神の存在証明をしなければならないという事は、感性の部分(ブラトンの言うパトスの部分)では「神はいない可能性もある」と直感的に思っているからではないだろうか。そのため理性で神が存在する事を無理矢理理論的に納得付けしようとしているのではないだろうか。

さてそれがカントになると少し状況が変わっている。カントはデカルトから1世紀後の人である。その分キリスト教の影響力が弱まっていたからだと考える事も出来るだろう。

ともかくも、カントも実践理性批判の中で神の存在証明を行っているのであるが、何となく付け足しのような気がするのは私だけだろうか。まず第一に、純粋理性批判の中では神の存在の可能性は述べているものの、存在の証明は行っていない。(純粋理性批判はまだ読んでいないので、これはあくまで解説を読んでそう書いている訳であるが。)

つまりそれは、理性の働きを純粋に理論的な面にのみ限定して考えた場合には、神の存在が証明できない事を意味している。デカルトが理性の存在を確信した次に行った事が神の概念の存在の確信であることを考えると、なんという大きな違いだろう。

カントにおいては、神の存在の証明は純粋理性の働きではなく、日常の行為における理性の働き、つまり実践理性の働きの方へゆだねられるわけである。

実践理性批判においては、私たちが日常の行為を行うとき、理性は常に道徳的な法則に沿って行為をするように求めると述べられている。つまりすべての人間に共通な「道徳的法則」があり、それに従って行動したいと人間は思っているということである。これは東洋の性善説に通じるものであるけれども、それでは西欧においては性悪説的な考え方は生じていないのだろうかという疑問も生じる。

それはおいておくとして、そのような道徳的法則に実際に従うのは困難なので、人々は自分自身の道徳的法則(これをカントは「道徳的格律」と呼んでいる)を持っており、それに従って行動している。もちろん人間は不完全であるから道徳的格律は道徳的法則に比較して不完全である。

その不完全さを克服して、道徳的格律を道徳的法則に一致させるように努力する事が人間に求められている事であり、それが実現されているのが神だというのである。ここにおける神は、キリスト教におけるような人間とは異なった高みにある絶対的存在ではすでになくて、人間が自己実現したいと思う究極の存在ということになる。

西欧の2000年以上に及ぶ哲学の歴史において、神の意味はかなり異なったものなってきたといえるだろう。そして人間がなるべき究極の存在を神と言うなら、それは仏教における仏と概念的にはかなり似たものではないか。カントを読んで西欧と東洋の神の概念の類似性に気がついたというのは、面白いことではないだろうか。