シンガポール通信ー週末カントを読む2:自由意志

先週からカントの「実践理性批判」を読み始めたが、さすがに難しい。週末の昼間読んでいると眠気をもようして来て昼寝になってしまうのだが、とりあえず私の理解した範囲でいくつか感じた事を記しておこう。

カントは理性を純粋理性と実践理性に分け、そのそれぞれの働きについて「純粋理性批判」と「実践理性批判」で論じている。純粋理性とは、あくまでも頭の中で論理的に考える場合の理性の働きであり、それに対して実践理性とは、私たちが日常生活の中でいろいろと行為をする際に行う理性の働きと解釈すれば良いだろう。まあこれは言われてみれば確かにその通りである。

頭の中で考えるだけの純粋理性よりは日常生活における理性の方が私たちにとっては重要なので、実践理性批判から読み始めた訳である。もっとも、純粋理性批判岩波文庫2冊の大書なので、最初にそれから手を付けるのには恐れをなしたというのが本当のところである。

さて、実践理性批判を読んでいて2つの興味深い点を見いだした。それは「自由意志」の概念と「神」の概念である。これらは、特に現代に生きている私たちとの関係から見てみると、興味深い問題を提起してくれる。

まずカントは、私たちの理性が自由意志と密接に結びついている事を指摘している。やさしく言うと、私たちが理性に基づいて物事を考える時、私たちの理性は自由であり何者にも束縛されないという事である。もっと卑近な言葉で言うと、「私が何を考えようと私の勝手でしょ」というわけである。

現代に生きている私たちは、何かを考えるのは自由である事は当然の事と思っており、このように指摘されてもピンと来ないところがある。しかしよく考えてみれば、人間が心の中では外部の何にも束縛されず自由に物事を考える事が出来るということを人々が明確に意識したのは、人間の歴史上それほど古い事ではないのかもしれない。

プラトンの対話編に出てくるソクラテスは、「徳とは何か」「義務とは何か」などの物事の本質的な意味に関する議論を人々に吹きかけている。これは、「どのような人が徳のある人か」という問いとは違って、物事を本質にまでさかのぼって考える事を人々に勧めていることになる。

いいかえると、「先入観にとらわれず、自分の頭で考えろ」と言っている訳なので、暗に「自由意志」に基づく理性の行使を人々に勧めている訳である。けれども、明確に自由意志といっている訳ではない。むしろギリシャ都市国家時代には、国家に貢献する事が第一に人々に求められていた訳であるから、その意味では国家への貢献という先入観の基でこのような問いに対する答えが探求されたのであろう。

しかしながら、ソクラテスがそこまで意識していたかどうかは別として、暗に「先入観にとらわれず自分の自由意志で物事の本質にまでさかのぼって考えよ」ということを意味していたソクラテスの問いかけは、ペロポネソス戦争に破れ混迷期にあるアテネという国家の存続を第一に考えている時の統治者にとっては、ある意味で危険思想だったのかもしれない。

穿った見方をすると、自由意志の重要性を説いたが故にソクラテスは死刑に処せられたという考え方も出来る。そのように、個人の自由意志は国家という存在にとっては時に危険思想なのである。

国家に対する貢献が第一の義務とされていたローマ時代が、哲学の点からすると特に新しい思想を生み出さなかった時代であるのも、このことと強く結びついているのかもしれない。

さて時代は下って15世紀になるとデカルトの「我思う、故に我あり」という有名な思想が現れる。これはある意味で当たり前であり、大学の授業で習った時も「なんだ、あたりまえのことじゃないか」と思ったものである。

しかし考えてみればローマ時代の軍事国家に代わってキリスト教が人々の生活の細部にまで口を出すようになった中世においては、キリスト教が絶対であり神につくす事が人々の生きる道であったわけである。そのような時代に、すべての事を疑いその果てに自分の理性のみが自分が信じる事の出来る唯一のものであると考えたデカルトは、やはり哲学に新しい時代を切り開いたと言って良い。

しかしながら、デカルトも自由意志という言葉は明示的には使っていないと記憶している。もちろん本人はその事はわかっていたと思う。しかしながら、16世紀の宗教改革があったにせよ、まだキリスト教が大きな力を持っている時代に自由意志という言葉を明示的に使うと危険思想と見なされたであろう。

それがやっとカントの時代になって、この言葉を明示的に使えるようになったのではないだろうか。デカルトは17世紀(1596-1650)の人であり、カントは18世紀(1724-1804)の人である。ソクラテスからデカルトまで何と約2000年、そしてカントまで2100年以上の時間が経過している。

哲学が本格的に始まってから、人間が先入観や宗教の教えなどにとらわれる事なく自由意志を使って自分の理性に基づき考えるという事を明確に意識するまでに、2000年におよぶ時間を必要としたのである。このことは、人間の知的な進歩というものも時間のかかるものであることを意味しているのではないだろうか。