シンガポール通信ーラブレター2

とは言ってもそれは女性コンプレックスのうちの女性恐怖症の部分だったのだろう。相変わらず女性には持てないのだと言う「持てないコンプレックス」は残っていた。これは大学を出てからも続いたと言っていい。

ところで、高校時代の話には後日談がある。

私を育ててくれた祖母は私が大学を出て就職し東京に住むようになって数年してから亡くなった。たまたま私は出張しており、母からの緊急の連絡が出張先に届くのが遅れたため、祖母の死に目には会えなかった。

当時は携帯電話がまだ出現する以前であり、依然として緊急時の連絡として電報が最も確実なものとして使われていた時代である。出張する時は、宿泊先の電話番号を知らせておくのだが、当然夜中などには宿屋は宿泊客に電話は取り次いでくれない。緊急時に備えるためには、宿屋の住所を知らせておく事が必要であるが、わたしはそのような事は予想もしなかったので、母に宿の住所は知らせておかなかった。

さて、ともかくも祖母の葬式も終わってしばらくしてからの事である。夏休みを取って両親の家に帰省していたときのことである。ある日、母が妙に真剣な顔をして、私に祖母の私宛の遺言というのを教えてくれた。

それによると、高校時代、なんと私宛のラブレターが、同じ高校の女生徒達からしばしば郵便で送られて来ていたとの事である。祖母はこれらの手紙をどうするかかなり悩んだとの事であるが、私の勉学に差し障りが会ってはいけないとのことで、送られてくるたびに焼却していたとのことであった。

しかも、彼女らの一人で高校卒業後地元で就職した女性は、私が大学に進学して祖父母の家を離れてから、しばしば祖父母の家を訪れて祖父母と私の事などを話し合っていたとの事である。

母によると、この遺言は祖母の最後の言葉に近かったが、私に絶対伝えてほしいと祖母は念を押したという。かなり祖母にとっては気になっていたのだろう。

祖母が私の勉学を気遣って私宛のラブレターを焼却していたという事実が、私に取って幸だったのかそうでなかったのかは、今となってはわからない。もし祖母がラブレターをそのまま私に渡していたら、私の高校時代はそしてその後はどうなったのだろうなどと、いまでも想像してみる事はある。

ただ、母から聞いた祖母の遺言が、私の女性コンプレックスを少し軽くしてくれた事だけは確かである。