シンガポール通信ーラブレター

再び昔話。今回は私の高校時代の思い出を。


私の父親は繊維関係の会社に勤めており、転勤の多い環境だった。弟二人はずっと両親と一緒に転校の多い生活をしていたが、私は長男という事もあって、落ち着いた生活の方が良いだろうという両親の配慮により、兵庫県の田舎で暮らしていた祖父母のもとで幼稚園時代と中学の後半から高校時代を過ごした。祖父母とも私を大変かわいがってくれたが、特に祖母は私を溺愛してくれた。私は「おばあちゃん子」だった訳である。

女兄弟がいなかった事もあり、また母親との生活もそれほど長くなかった事もあり、女性、特に年齢の近い女性と話す機会というのは私の子供時代はあまり経験した事がなかった。祖母はまあ女性とはいっても、ある意味それを既に超越した存在である。したがって、私はいつの間にか、ある種の女性苦手意識もっと言うと女性恐怖症のようなものを持つようになった。

高校時代は多感な時代であり、異性を意識し始める時代でもある。少し遅いのではと指摘されそうであるが、最近はともかくかっての子供達は小中学校時代はあまり異性を意識しなかった。それだけ奥手だったのだろう。異性を意識し始めるのは、むしろ高校生になってからではなかっただろうか。

ともかく高校になると、女性からラブレターをもらったり、女性とつきあったりしているのが私の友人の中にも出てくる。雑談をしているときに、靴箱の中にラブレターが入っていたとか女友達が自宅に遊びに来たとかの自慢話を友人から聞かされる機会が増えて来た。

しかしながら、私自身には全くラブレターをもらったという経験はなかった。友人の自慢話を聞かされているうちに、女性恐怖症と相まって、自分には女性に縁がないんだとか女性に持てないんだという意識が私の中に芽生えて来た。

もちろん女友達が欲しくなかった訳ではない。しかしながら、自分にもそんな経験をしたいなという願望と同時に、どうせ自分には縁がないんだとか自分は女性に持てないから仕方がないんだとかという考えが同時に湧いて来て、それはあくまでも淡い願望にとどまっていた。女性恐怖症と女性に持てないんだという意識は女性コンプレックスとなって私の心の中に根付いていたと言って良いだろう。

幸か不幸か、高校時代は受験に集中する事を求められる時代でもある。私の通っていた高校のような田舎の高校でも、2年生になると受験専門のクラスが設けられ、志望校を決めてそれに向けての受験勉強を強いられる事となった。

そのような環境だったので、淡い願望がそれ以上のものになることはなかった。とはいいながら、ある出来事があったのを今でもおぼえている。当時は自転車通学をしていたので、友人と二人で自転車に乗って高校からの帰り道のことである。

徒歩通学をしている女生徒達のグループを追い越したときに、「見て見て、あの人よ」と女生徒の一人が友人達に声をかけているのが耳に入った。私たちの事を噂しているらしい。しかしながら、女性コンプレックスを持っていた私は、「その言葉が自分をさしていれば良いのにな」という願望と同時に、「どうせ自分じゃなくて友人の事を噂しているのだろう」という一種のあきらめのようなものを感じた事をおぼえている。

その後、京大に入ってからもこの女性コンプレックスはしばらく続いた。特に私の属していたのは工学部で周囲にほとんど女性がいなかったからなおさらである。しかしながら同じ高校から大学に入った友人が文系に属しており、彼も私と同様文学青年であった事もあり、そのうち読書サークルに私を誘ってくれた。

読書サークルは、10人足らずのこじんまりしたサークルであったが、文学部や薬学部の女性達も何人か属しており、これらの女性達と当初はおずおずと、読んだ小説に関する意見を交換する事から始め、そのうち日常の出来事も話し合えるようになって、少しずつ解消して行った。


(続く)