シンガポール通信ープラトンの「国家」と日本2

しかし、果たして哲人政治はうまく行くのだろうか。人心が乱れている場合には、強いリーダーシップを持った政治家の出現が強く望まれる。これはそれ以降の歴史が示すところである。たしかにローマの五賢帝時代のように、優れたリーダーがトップにいる時代は国が栄える時代でもある。

オバマが「チェンジ」をキーワードにして、無名の政治家からたちまち米国大統領に上り詰めたのも、米国の一国覇権主義が崩れ米国の人々が自分たちに自信を失って来ている時代に、人々が強いリーダーシップを大統領に求めている事の現れであるという事もできる。

しかし、リーダーに強いリーダーシップを期待し、彼等に全権を委任する事は極めて危険である事は、これも歴史が示している。たとえば、ローマ時代は上のような五賢帝のような優れたリーダーが出現した時代でもあったが、ネロのような暴君であり悪帝が多く出現した時代でもある。

最近の例で言うと、なんといってもヒトラーであろう。第一次世界大戦に破れ多額の賠償金に苦しめられていたドイツ国民に対し、アーリア人種を中心としたドイツ人の優秀性とドイツが他国を支配するべき事を説いたヒトラーの言葉は魔法のような力を持っていたのであろう。

しかしひとたび権力を手に入れると、ヒトラーは自分自身の言葉に酔ってしまい、アーリア人種の他人種への優秀性を示す事を第一義として、ユダヤ人虐殺への道を突っ走ってしまったのである。

結局、歴史から我々が学んだ事は、理想主義である「哲人政治」は反面で大きな危険性をはらんでいる事である。政治家といえど一人の人間であり、理想的な哲人を望む事は危険であるという事であろう。もちろん理想に近い哲人がリーダーとして現れる事はあるだろう、しかしそれ以上に、悪の本質を持った人間が哲人の仮面をかぶっている事が極めて多いこともあるということを学んだのかもしれない。

結局のところ我々の選択したのは、基本的には国民が主権を持ちながら、しかし実際には国民が選んだ代表者が政治を行うという間接民主主義である。ある意味で間接民主主義は、直接民主主義哲人政治を一緒にしたものだという事が出来るかもしれない。

しかし、それでは日本の間接民主主義は現在うまくいっているのだろうか。日本では長年の自民党による政治のいわばマンネリ性とそれによる日本の地位の低下に危機感を覚えた国民が昨年の選挙で民主党を選択するという、いわば革新的な出来事が生じた。

しかしその後、鳩山首相小沢幹事長の金権問題や、米軍の普天間基地移転問題に対する対応の遅れなどから支持率は急速に低下している。これは基本的には鳩山首相のリーダーシップに対する失望の現れであるといわれている。一方自民党に対する支持率も低迷しており、これは、谷垣総理のリーダーシップのなさによるものだという批判が出ている.

民主党自民党のトップのリーダーシップの欠如は、大変憂うべき事である。しかし、それが逆に極めて強いリーダーシップを持った指導者の出現に対する期待や希望に変わるとしたら問題である。上に述べた哲人政治の持つ危険性はよく考えておく必要があるだろう。

こういうことを言うと無責任といわれるかもしれないが、私自身は鳩山首相は決して嫌いではない。自分にリーダーシップがない事は自覚しながら一生懸命首相としての役割をこなそうとしている姿は、ある意味で好感が持てるともいえる。

リーダーシップのない首相をトップに持っていながらなんとかやっていけている日本は、ある意味で健全な国家なのかもしれない。私の本でも書いたように、ネットワーク時代は人々が常時ネットワークでつながれ情報を共有し議論しあうという時代である。それはギリシャ都市国家直接民主制が、再び現代に新しい衣をまとって再登場したものなのかもしれない。

そのような時代は強いリーダーシップを持った指導者は不要になる時代なのかもしれない。暴言かもしれないが、リーダーシップのない首相をトップにもっている日本は、ある意味で時代を先取りしているともいえる。