シンガポール通信ー日本の政治状況

メル友の一人で小学校時代の友人から、最近の日本の政治状況を憂えるメールをもらった。返事をしておいたが、ついでに公開するのも良いかと思うので、少し編集して、最近の日本の政治状況に関する私の意見を以下に記したい。

友人の日本の最近の政治状況に関する憂国の士の心情は理解できる。民主党の支持率が大幅に低落しているのに、それに変わる支持政党がないというのは何とも情けない状況である。

シンガポールでは、日本の政治状況がテレビの話題になる事はほとんどない。代わりにタイの反政府デモの状況が毎日のようにニュースになっている。タクシン元首相の支持派団体「反独裁民主統一戦線」が主導権を持ってデモを指導しているが、参加者全員が赤シャツを着ている事からデモ隊をRed Shirtsなどとテレビでは呼んでいる。

しかし参加者の表情を見ていると、政府を倒すために我が身の危険を顧みずデモに参加しているというよりは、デモに参加する事その事自体を楽しんでいる、いわばエンタテインメントに参加しているというように見えなくもない。エンタテインメントは言い過ぎであるが、少なくとも一般大衆が政治活動に参加できるようになったという事そのことを楽しんでおり、本気で政府を倒そうとは考えていないように見える。

そのようなタイの状況が日本の政治状況よりもニュースになりうるというのは、日本の政治状況そのものが海外から見てニュース性がない、いいかえればコップの中の嵐とでも見られているのではないだろうか。ある意味で嘆かわしい事である。

今朝はタイの反政府デモと並んで、タイガー・ウッズの記者会見が流れていた。残念ながら、日本の政治状況よりウッズの方がニュースとして重要(興味深い)と考えられている訳である。

現在、かっての小泉内閣の政策に対しては、格差を拡大したなどの観点から批判が行われ、批判的な見方が出て来ている。もちろん賛否両論あり、格差を拡大した面があった事は否めないであろう。しかし少なくとも、自らの意見に基づき明確に政策を打ち出し、それを首相としての小泉首相が持つ権限をフルに活用して実行に移したという彼のリーダーシップは高く評価すべきではないだろうか。

少なくとも当時日本人の大半は、彼の言動を見ながら、やっと日本も世界に誇れる政治家を持つようになったかという思い、もっというと高揚感のようなものを持ったのではなかろうか。今はいろいろと国民に負担をお願いする事もある、しかしそれは日本を経済のみならず政治の面でも世界一流にするための通過点である、という彼のメッセージはいかにも明快でありわかりやすかった。

確かに小泉首相は日本人としては異端のキャラクタであったのかもしれない。しかし、彼のようなキャラクタが今後の日本人が世界に伍してし行くときに大切なキャラクタだと私たちは思ったのではないだろうか。しかしながら、高揚の時期は長くは続かなかった。安倍首相、福田首相と変わるにつれ、再び合意形成型の典型的な日本人的リーダーが生まれると共に、私たちの高揚感は急速にしぼんでいったような気がする。もう小泉首相型のリーダーは現れないのだろうか。

一方、情報関連の状況に目を移すと、3D映画・テレビやiPadへの過大な期待のみがニュースになっているようである。私のブログで何度も書いているが、断定的にいうと3Dテレビは普及するほどの価値のある商品ではないというのが私の考えである。iPadについては、確かに新しいジャンルの商品である事は認める。しかし、電子書籍などのコンテンツがそろって初めてその本来の機能を発揮できる商品であり、現時点でその機能を褒めそやすのは時期尚早であろう。

これらの商品を新聞やネットなどの報道で大きく取り上げているのは、報道関係者が自らの考え方・体験に基づいて書いているというより、業界の動向や技術動向にこびを売って書いているような気がする。3Dテレビであれば、実際に自分で商品を体験して書いているのだろうか。また、専用眼鏡が必要であるが、これに関しても自らの考え方、そして自ら消費者の一員としての直感に基づき果たして消費者がこれを受け入れるだろうかと想像力を働かせて書いているのだろうか。

記事を見る限りどうもそうは思えない。周りが騒いでいるから、それに乗っかって御用記事を書いていると見える記事も多い。情けない事ではないだろうか。

これは日本だけではない。同様に、米国も米国一国の覇権の時代が終わって、かっての自信を失い混迷期に入っているように感じられる。ベトナム戦争の敗戦で今後米国は変わるといわれ、同時多発テロでやはり今後の米国はそれまでとは決定的に変わるといわれたのはついこの間の事ではないだろうか。

自国中心主義を捨て、他国との良好な関係の中での発展をめざす事が今後の米国の進む方向だと言われたのも、いつのことやら。やはり米国至上主義を捨てられないまま、気がついてみれば、車に代表される自国の中心産業が空洞状態になり、一方で中国の発展が著しいのを認めざるを得ない状況に追い込まれつつある。

現在、プラトンアリストテレスを読んでいるが、彼等の生きていた時代は、ペロボネソス戦争に破れアテネが長期低落傾向にあり、人心も乱れていた時代である。状況は現在の日本や米国と似ているといっても良いかも知れない。

ところがそのような時代に、ソクラテスプラトンアリストテレスというギリシャを代表する、というより世界の哲学の歴史を代表する哲学者を生んでいるというのは興味深い歴史的事実ではないだろうか。

混迷の時代にこそ偉大な哲学者は生まれるのかもしれない。もしかしたら、現在、世界のどこかで歴史に残る哲学者が生まれているのかもしれない。