シンガポール通信ーバイオリン2

それ以降は私もMさんを少しは意識するようになった。そしてそのつもりで観察していると、確かに私に好意を持っているように見える。A君と私が一緒に彼女にレッスンしてもらう機会も多かったが、心なしか、私の方に時間を割いて丁寧に教えてくれるように思える。しかし当時の私は 文学の中の女性に恋するような文学青年であったから、現実世界の女性と友達や恋人関係になるという事は全く考えられず、 私の方から彼女に積極的にアプローチするという事は全くなかった。

ところが、その気になってみると、私の先生も彼女と私を近づけようとしているように見えなくもない。例えば彼女が新しいバイオリンと弓を買った際、お古のバイオリンと弓を私に彼女から買うようにしきりに進めてくれたりする。こちらもうれしくなってアルバイトで稼いだ貯金をはたいてバイオリンと弓を購入したものである。

確かバイオリンが30万円、弓が10万円近くしたのをおぼえている。もう40年昔だから当時の40万円はたいした金額である。たまたま医者の息子のアルバイトをしており、毎月10万円近い収入があったから買う事ができたといえる。(その後NTTに就職した際の初任給は4万円程度であった。)バイオリンは100年以上前にイタリアで作られたもので、ストラディバリウスのような誰でも知っているバイオリン作りによる作品というわけではないが、先生によればまあ自慢できるバイオリンだとの事であった。

さて、そのうちに私の大学の修士課程の卒業の日が近づいて来た。A君は私と一歳年下であるが、1年浪人をしており学部卒業で就職するので、彼も同時に卒業である。彼は経済学部なので銀行関係の就職を希望し、成績が良かった事もあり希望とおり早くから東京銀行(現在は三菱東京UFJ銀行)に就職が決まっていた。それに対して当時の工学部は、個人個人で就職活動をするというより、大学に来た求人を先生が調整して学生に振り分けるという時代であったが、私も先生や友人達と相談の上NTTへの就職が決まって東京で生活する事となった。

A君は関西の支店での勤務が決まり、関西での生活を続けることとなった。卒業が近づくにつれて名残惜しかった事もあり、A君やバイオリンの先生、M嬢などとも普段より頻繁に会ったが、特に彼女との関係に進展があった訳ではない。しかし、A君に言われた事は私の頭の中に残っており、私の実家が関西にありしばしば関西に帰郷する事があるだろうことから、これらの人たちと会うもあるだろうし、また彼女との関係が進展する事もあるかもしれないなどと期待していたものである。

とはいいながら、就職してみると、新しい就職先やそして何より東京という京都と異なる文化圏に自分を適合させる事に時間を費やす必要があったため、A君やバイオリンの先生との連絡も途絶えがちになった。

1年ほどしたある日、たまたま帰郷しており、A君に会いたいと言う気持ちになったので、彼に電話をした。もちろん携帯のない時代なので、彼の住んでいるアパートの電話番号にかけたわけである。なつかしいA君の声が聴ける事を期待していたのだが、電話に出て来たのは女性であった。電話をかけ間違えたのかと思い、あやまって電話を切ろうとしたら、受話器から「中津さんじゃないの」という声が聞こえて来た。

そういえば聞き覚えのある声である。なんとA君と一緒にしばしばレッスンを受けたM嬢である。一瞬頭の中が混乱してしまった。一体なぜA君に電話したはずなのに彼女が出るのか。しかし次の瞬間状況を理解した。彼女はA君と結婚していたのである。「えーっ、A君と結婚したの。」「ええ、そうよ。」冷静な声である。ここで、くどくど経緯を聞いたり、かっての私への彼女の気持ちを問いただしたりしたら男がすたる。このあたりの対応は、私は古典も含めて海外文学をいやというほど読んでいたので、意外に冷静にすることができた。A君が外出して不在である事を確認した後、彼女にお祝いの言葉を述べて電話を切った。最後に「ところでバイオリンは続けているの」と聞くと「やめたわ」とこれもあっけにとられるほど冷静な答えであった。

「弱き者汝の名は女なり」というハムレットの言葉が頭に浮かんだ。その後、しばらくしてバイオリンの先生を訪問したが、M嬢がやめたのは先生にとってもかなりの精神的打撃だったようである。「彼女はやめたよ」と吐き出すように言うと、それ以上はその話題に触れようとしなかった。そしてしばらくしてその先生は京都から兵庫の僻地に居を移したと聞いた。その後は音信不通である。教師としての生活にも終止符を打ったのかもしれない。

そして私もその日を境として私のバイオリンに手を触れる事はなくなった。バイオリンは現在も家の納屋の奥の方に眠っている。手入れをしていないので、弦が切れそしてバイオリン自身も板が割れているかもしれない。