シンガポール通信ーカラオケ

ずいぶん前になるが、NTTの研究所に勤務していた頃、カラオケに狂っていた事がある。

NTTに就職して当初は、武蔵野市にある基礎研究所に勤務していたので、付き合いは研究者や大学の先生などアカデミックな範囲に限定されていた。数年経って、私が関わっていた音声認識技術を実用化しようという事になり、横須賀の研究所の方に転勤になった。
実用化という事になると、おつきあいする相手も装置の試作を依頼するメーカーの人たちや、サービスを導入するユーザの人たちなどに広がってくる。そうなると、基礎研究所時代のように、おつきあいといっても研究内容の議論だけというわけにはいかなくなってくる。いわゆる「サラリーマン的つきあい」が必要になってくるのである。

具体的には、カラオケ、麻雀、ゴルフのサラリーマンの3大趣味を身につけねばならなくなる。これはいずれも、論文読みとコンピュータを使った実験で毎日を過ごしていた私に取っては、全くの別次元の経験であった。どうなる事かと思っていたが、「案ずるより産むが易し」の例え通りで、徐々にこれらの「趣味」にも慣れ親しんで行くようになった。

一時期は、研究所の同僚と週数回は、仕事が終わると横須賀の街に繰り出し、飲み、その後はカラオケ、そして深夜まで時には徹夜で麻雀をやったものである。さらに月数回はおつきあいでゴルフをやっていたので、まさに典型的サラリーマン的生活を送っていた事になる。

武蔵野研究所時代に比較して堕落したものだという後ろめたい気持ちを持つ事もあったが、それ以上に学生紛争に明け暮れた大学生活から一変して、世の中一般の人たちと同じレベルの生活を楽しめる自分自身を見て、新たな発見をしたような気持ちになったものである。(大学時代の学生紛争の頃の経験に関しては、このブログでも何回か書いているので、参照してほしい。)

さてカラオケに話を戻すと、とは言ってもすんなりとカラオケが受け入れられた訳ではない。私も含め日本人は自己表現が苦手な人が多い。他人の前で自分の意見を述べたりする事が苦痛だというのは多くの人に共通する気持ちだろう。

私自身もそうであった。小学校から高校生活までを通して、国語の時間に朗読させられたり、音楽の時間に教師のピアノに合わせて歌を歌うのは全くの苦痛であり、そのため国語や音楽の時間は私の最も嫌いな教科であった。同じような人は多いのではないだろうか。極端に言えば、これらの教科が嫌いだから理科系に進んだともいえる。

従って、他人の前で歌を一人で歌うなどということは、私にとって全く考えられない事であった。武蔵野研究所時代は、酒を飲んでも研究の議論の終始する事が多いため、幸か不幸かカラオケに遭遇するという機会には出会わずにすんだ。もちろん当時カラオケが流行し始めていた事は知っていたが、自分がカラオケを歌うなんて機会は来るはずはない、カラオケは別世界の出来事と思っていた。

ところが、横須賀研究所に移るとそうはいかない。何の機会だったか、多分研究室の同僚とスキー合宿をした時かと思う。宴会の後でカラオケ大会という事になった。私は自分に順番が回ってこないよう、隅の方で小さくなっていたのであるが、年齢順という事でとうとう私に准が回って来てしまった。普段だったら逃げ出していただろう。しかし酔っていた事もあって、「えーい、なるようになれ」という気持ちでマイクを握った。

歌は今でもおぼえている。石川さゆりの「津軽海峡冬景色」であった。「おーい、曲と全くあっていないぞ」等と冷やかされたのもおぼえている。歌い終わった後で、歌わなければ良かったと落ち込んだものである。というわけで、私のカラオケデビューは惨憺たるものであったが、心の中にある種の心地よさが湧いて来たのも確かである。どう言ったら良いのだろうか、正確に表現する事は難しいが、私の内部で何らかのスイッチが入った事は確かである。「自己表現のスイッチが入った」と表現できるかもしれない。(ちなみに、石川さゆりの歌は、今でも私の好きな演歌である。)

さてそれからは、カラオケのカセットテープを買い込み、朝夕の通勤の車の中でカラオケの練習を始めた。最初はなかなか曲とテンポが合わなかったが、徐々に余裕を持って曲にあわせながら歌えるようになって来た。さてそうなると、奇妙な事であるが、子供の頃あれほど歌を歌うのが嫌いだったのが、一転して歌うのが大変楽しいということに気づいた。つまり自己表現の楽しさに気づいたのである。

子供の頃は人前で自分の意見を述べる事は苦手であったが、武蔵の研究所時代に学会等で人前で発表する機会が多かったので、自己表現の楽しさがわからなかった訳ではない。しかし、学会で発表するのと歌を歌うのは全く別の事柄である。難しい表現をすると、学会発表は論理レベルでの自己表現であるのに対し、歌を歌うのは感性レベルでの自己表現である。

別の言い方をしてみよう。大げさな言い方かもしれないが、それまでは学者の世界での自己表現のみを経験していたのに対し、いわばアーティストとしての自己表現に目覚めたということになる。そうなるとどうなるか。「マイクを握って離さない」状態になってしまったわけである。世の中の中年のサラリーマンに代表される人たちの多くが、私と同様カラオケの楽しさに目覚めて、マイクを握って離さない状態を経験されているのではないだろうか。これは、アーティストとしての自分を発見した楽しさとも言い換える事が出来るかもしれない。
(続く)