シンガポール通信ーカラオケ(自己表現としてのカラオケ)

カラオケはご存知のように日本が発明したメディアであり、かつ日本から輸出し海外でも受け入れられ、世界的に普及したメディアであるといえるだろう。自己表現の苦手な日本人が自己表現のためのメディアを発明し、それが世界的に受け入れられているというのは、興味深い事実である。

実は日本人が他人の前で自分の意見を表現したり、歌を歌ったりという自己表現が苦手だというのは、本質的な性格よりも多分に教育の影響がある。中国から入って来た儒教的な考え方と島国としての日本独自の和を大切にする文化が結びつき、「男は黙って・・」「巧言令色、少なし仁」「それをいっちゃおしまいよ」などの、言葉にしない事をもって徳となす日本独自の文化を生み、それが未だに子供達に影響を与えているのであるまいか。

かってATR(国際電気通信基礎技術研究所)に勤務していた事があるが、ここの研究員は主として、海外からの客員研究員と企業から派遣されている研究者から成り立っており、ある意味特殊な研究所であった。

企業から派遣されている研究者は日本人的慎ましさを備えており、最初はなかなか自己主張しない。対して海外からの研究員は、いわゆる欧米文化で教育されているので、自己主張をしてなんぼという連中ばかりである。この2つの異なった集団が共同研究する訳である。

当初は議論していても当然日本人が押され気味であるが、興味深い事にそのうち慣れてくるのか、日本人も自己主張を始めるようになる。一旦自分の自己主張が欧米人に受け入れられると、「自己表現の楽しさ」に目覚めるのだろうか、そのうち全く日本人と欧米人の自己主張のレベルに差がなくなって来た。

そうすると面白い事に、国際会議などの場で、それまでは自信なさそうにおどおどしながら発表していた日本人の研究者達が、見違えるほど自信を持って発表し始めるのである。このことから、私は自己表現の欲求そのものは日本人も欧米人と同様持っているのだが、これまでの教育、経験がそれを外に出すのを押しとどめているのではと思うようになった。適切な機会さえ与えてやれば、日本人も欧米人同様に自己主張、自己表現が出来るのである。

さて、脱線してしまったが、それではカラオケはなぜ海外でも受け入れられるようになったのだろうか。実は、カラオケは自己表現メディアであると同時に、他にもきわめて優れた特徴を持つメディアなのである。これについては、近々(2月17日)に発売になる私の本「テクノロジーが変える、コミュニケーションの未来」に詳しく説明してあるので、ぜひそちらを参照してほしい。

ご存知のようにカラオケは、アジア、欧米でも広く普及しているメディアとなっている。日本のカラオケボックスに相当するものは、アジアではよく見られるし、さすがに欧米ではカラオケボックスに相当するものは見かけないものの、バーなどにカラオケが置いてあるのは通常の風景である。地元の若者がバーに集まりカラオケに興じているのは、海外では良く見かける風景である。

前回、私が一時期カラオケに狂っていた事を書いた。その後、NTTからATR、さらには関西学院大学と勤務先が変わったり、一緒に飲み歩いたり、カラオケ・麻雀に興じた同世代の人たちが家庭の事で忙しくなり一緒する機会が減った事もあり、カラオケはずっとご無沙汰していた。

最近、再びカラオケをする機会があった。しばらく離れていたので、当初は少し抵抗があったが、始めて見るとあの「自己表現の楽しさ」に再び目覚め、時々カラオケに行くようになった。

かってカラオケに狂っていた頃と現在の違いはなんだろうか。と考えるとそれは第一に上にも述べた「カラオケボックス」の出現であろう。かってはバーにカラオケの装置が置いてあり、お客が順に自分の好みの歌を歌ったのである。もちろん今でもこの形のカラオケは残っているが、カラオケボックスの場合当然複数のお客のグループが存在しているわけで、見知らぬ客の歌を聞いて拍手したり、また自分の歌を見知らぬ客に聞かせるという事をしていた訳である。

それに対し、カラオケボックスはグループ毎に個室が割り当てられる。もちろんカラオケを楽しむのはグループ内に限られるからより親密度は増すが、一方でカラオケを楽しむというエンタテインメントをバー全体で共有する雰囲気を持つ事は出来ない。

いわば、レストランなどで皆と共有の空間で食事をするのと、個室で食事をするのの違いといえるかもしれない。2つの異なったエンタテインメントの形態が共存し合っている事になる。 後付けで考えればうまく説明できるにせよ、このようなビジネスモデルを考える能力も日本人の感性かもしれない。

(さらに続く)


自分の歌の順番を待っている これはシンガポールカラオケボックス