シンガポール通信ー関西と関東の文化差2

関西と関東の文化差についてもう1つ。今回は京都の表現法と東京の表現法の違いについて。

京都人は心の中で思っていることと、表に出てくる言葉が異なるとはよく言われる。 訪問した家をお昼頃に辞そうとした時に「どうぞお昼でもご一緒に」と言われて素直に招待を受けたところ、後であの人は全く物事がわかっていないと悪口をいわれたというのは、京都人の表と裏の言葉の関係としてよく引き合いに出される話である。

私は直接このような典型的な経験をした訳ではないが、京都で過ごすうちに、京都人と交わるためのある種の法則のようなものを身につけた。少し説明してみよう。京都人は心の中で考えていること(これをXとする)を表現する時、そのままストレートには表現しない。これは、数学的にはある変換関数Fを通して、Y=F(X)と変換したYを言葉にして出すということを意味している。

それでは、聞き手はどうするかというと、Yから本当に思っていることXを推定する訳である。これは、YにFの逆変換関数FIを通して、X=FI(Y)としてXを得ることを意味している。それでは関数Fはどうやって知るか。Fは人それぞれで異なっている。もちろん京都人一般に通用するFというのはあり、京都にある程度住んでいると無意識のうちにFを学ぶことになるが、実際には職業など個人によってある程度異なる。

というよりは、京都人はある人の知性とその人の関数Fの複雑さが正比例していると考えている節がある。いいかえると、会話をしながら相手の関数を推定することに楽しみを見いだし、そしてまた自分の関数の複雑さを相手が理解できるかなと、相手を観察しながら会話を楽しんでいるというように見える。つまり、会話を相手の知性を評価する機会として、また自分の知性を相手に知らしめる機会として利用しているのである。

会話がお互いの知性を評価し合う場になっているのというのは、フランス文学やロシア文学を通して学んだ、かってのフランスやロシアの貴族社会のサロンに似ている。このゲームのルールがわからないと、あの人は無粋な人だとなるわけである。もちろん京都も最近は観光が最大産業であり、観光で生きて行く必要から観光客相手に媚を売る必要もあり、変わりつつはあるのだが、京都人のこの基本的なプライドは変わっていないだろう。

私も京都に住んでいる間に多少ではあるがこのようなコミュニケーション術を身につけた。もちろんこれは身に付いてしまえばある程度は無意識に行える行動となる。

さて、問題は私が大学を終え、東京に暮らすようになってからである。NTTの研究所で研究生活を送るようになり、周りの研究者達と日常会話をするのであるが、この無意識に身に付いたコミュニケーション行動は変わらない。したがって、私は常に相手の言っている言葉Yから相手の知性をベースに私が推定するFの逆関数を介してXを推定するというコミュニケーション行為をしようとした。ところがである。Yを変換して得られるXが全く理解不能なのである。

このことは私を大変混乱させた。同僚であり同じ研究畑で仕事をしているのに、相手の言っていることがわからないのはどうしたことか。多分相手は私が想像していた以上に高い知性を持っているのだろう。そこで私は、いろいろと私が知っている何種類かの複雑な関数を当てはめて、相手の言っていることを理解しようと試みた。しかし、いずれの関数を当てはめても相手の言っていることが良く理解できない。最初の半年はこの努力にエネルギーを費やし、ノイローゼに近い状態にもなった。

ところがである、ある時こつ然とわかったことはなんとF=1なのである。つまり、東京人は自分の思っていることをそのままストレートに表現しているということを理解したのである。このことは、別の意味で大きなショックであった。関数Fの複雑さと知性が結びついているという京都的考えからすると、研究者というのは知性が低いのであろうか。いやそんなことがあるはずはない。それではなぜF=1なのだろうか。

そして私がたどり着いた結論は、東京という種々の地方から来ている人々が混在している社会では、関数Fを単純にしないとコミュニケーションが成り立たなくなるということである。なんのことはない、米国が種々の移民の混在している社会なので、自分の意見をストレートに表現する風習が定着しているというのと同様の現象が東京でもおこっているということである。

もちろん、これは研究者という国際感覚を身につけることが要請されている職業人だからという言い方も出来る。たしかにその後種々の職業の人々とつきあうようになると共に、単純にF=1ではないということも学んだ。しかしやはりこの最初の体験は強烈であった。

それ以降、出張などで世界各地に出かけ種々の国々の人々とコミュニケーションする機会を持つようになったが、この最初の体験ほど強烈な体験をしたことはない。これ以降、「東京と京都の文化差は東京とニューヨークの文化差より大きい」というのを1つの命題としてかかげている。これは、海外の人と議論を楽しむための格好の話題になる。