シンガポール通信ーツイッター(Twitter)について

ブログを始めたついでに、ツイッターTwitter)を始めてみた。まだ使い始めてほんの数時間なので、正しいのどうかわからないが、直感的に感じた点を述べてみたい。(ソーシアル・ネットワーキング・サービス(SNS)もいくつか登録はしているが、使ってはいない。そのうち使ってみようと考えている。)

使い始めた最初の感想なのであるが、「あっ、これは自己表現の手段だ」ということである。Wikipediaを見ると、「ツイッターはブログとチャットの中間的な機能を持つ」と記述してあるので、そんなことは当たり前ではないかと言われるかもしれない。しかしながら、文面をみるのと自分で使ってみるのはやはり違う。使ってみて、初めてその文面の意味が納得できた。

メールは純粋にコミュニケーションの手段である。これも言われてみれば当たり前のことである。しかもコミュニケーションは広義に解釈すると自己表現も含まれるので、広義のコミュニケーションでは、メールとブログ、ツイッターは同じくメディア技術を使ったコミュニケーションのメディアとしてひとくくりにすることが出来る。

しかしながら、詳しく見るとコミュニケーションと自己表現は異なる。広義のコミュニケーションは情報の伝達であるが、これは双方向のコミュニケーションと一方向のコミュニケーションを含んでいる。その定義に従えば、メールは双方向のコミュニケーションであり、自己表現は一方向のコミュニケーションであり、コミュニケーションの異なるジャンルに属する。

これは頭ではわかっていることであるが、これまでメールを使って単に情報を送るのではなく、友人・同僚と意見を闘わしたりもしてきたので、メールは自己表現手段でもあるかのような感覚を無意識に持っていた。ところが、今日(12月23日)のようなクリスマスの直前の日は、シンガポールでは大半の人が休みを取っている。一方日本では天皇誕生日で、これも休日である。そうするとメールを出してもなかなか返事が返ってこない。

最近はメールの場合も、大半の人が常にメーラーを立ち上げているから、チャットと同様にリアルタイムでメッセージをやり取りすることが多い。したがって、今日のように、英語で書いたメールにも日本語で書いたメールにも返事がすぐに返ってこないと、何となく手持ち無沙汰である。しかも私の研究所の所員や共通業務をする女性達の多くも休みを取っているので、ますます手持ち無沙汰である。

もちろん普段からたまっている種々の雑用をこなすには良い機会なのであるが、メール文化に慣れてしまっていると、メールのやり取りを常時行っていないと、なんとなくぽっかりと心の中に空洞のようなものが生じてしまう。それだけコミュニケーションをしていたいという人間の本能は強いのであろう。

このような状況はブログを書くにも良い機会であるが、ついでに前から気になっていたツイッターを始めてみようと思い立った訳である。そして使ってみると、最初の感想に戻る訳であるが、ツイッタ—は自己表現機能を持っていることに気づいた次第である。ツイッターで短い文面(ツイート)を発信することにより、自分の自己表現本能が満たされるのを感じたのである。

少し難しく言うと、メールにすぐ返事が返ってこない場合、メールをするという狭義のコミュニケーション本能は満たされないが、他方でツイッターを使うことにより自己表現本能が満たされ、全体として広義のコミュニケーション本能が満たされたという体験をしたということになる。もちろんツイッターは狭義のコミュニケーション機能も持っているが、それ以上に大切なのはメールが持っていない自己表現機能を持っているということではないか。

それならブログを書けば良いではないかということになるが、ツイッターは字数が制限されているため、逆にブログほど肩肘はって文章を書くという努力を要しない。つまりかなり気楽に現在自分が考えていることなどを短い文面で発信できるのである。

単なる狭義のコミュニケーションの機能だけではなく自己表現の機能を持つとしたら、ツイッターはメールより高度なメディアとなる可能性を秘めていることになる。これは馬鹿にしてはいけないなと感じた次第である。もちろんブログとツイッターの役割分担、さらにはSNSとの関係などはさらに考察する必要がある。またそれらについては追々ブログで書いていきたい。