シンガポール通信ー朋あり遠方より来る

古くからの友人に再会するというのは、人生の楽しみの1つである。最近いくつかそれに関連する経験をしたので、その話題を。

12月に帰国して14日に近々出版する本に関して出版社と打ち合わせをするため上京した際に、久しぶりに小中学校時代の同窓生と再会した。

私は子供時代父親の仕事の関係で数年単位で転校したが、小学校の5年生から中学校の1年生までの3年間を石川県小松市で過ごしたことがある。その当時の同窓生との再会である。

小学校5年生から中学校1年生というと、西暦でいうと1959年から1961年である。なんと半世紀ぶりの再会ということになる。その間に一度小松で行われた同窓会に出席したことがあるので、何人かとはその時以来ということになるが、本当に半世紀ぶりの再会という友人もいる。

さすがに半世紀というと、私の記憶の中にかすかに残っている友人の顔と、目の前にいる友人との顔が中々一致しない。顔だけ見ていると、いわば初対面の人と話しているのと同じ感覚である。しかしながら、たしかに当時の思い出は共有している。通常、古い友人との再会は、「懐かしい顔と出会った」などの表現がされる。ところが今回の場合は、外見からすると初対面の人たち、しかし思い出は共有している人たちとの会合という、興味深い体験をさせてもらった。

話題は当然、当時の小松、そして現在の小松のことになる。小松は金沢に次ぐ石川県第2の規模の都市である。小松製作所の発祥の地、そして本社工場のある場所として、私が住んでいた当時は、地方都市としては先進的な都市であった。小学校にはプールが設置されており、それまで川でしか泳いだことのない私にとっては(川で泳ぐというのはどちらかというと流れに乗って流されるのを楽しむという感覚である)、自分の力で泳ぐという体験が新鮮であった。

私の住んでいたアパートの近くには、市が設置した野球場、テニスコート、相撲場、弓道場などの体育施設があり、子供達にとっては格好の遊び場所であった。近所の友達と共に学校が終わると、これらの場所で暗くなるまで遊びに興じたものである。

また自衛隊の基地があり、当時の最新鋭のジェット戦闘機が離着陸をするのを、飽きもせず眺めていたこともおぼえている。ジェット戦闘機の離着陸の合間に、時折一般の旅客機が訪れることもあった。ジェット戦闘機に比較するとずんぐりとした胴体はあまりスマートとは言えなかったが、それでも銀色に輝く胴体は、私たち子供にそれが何か別の世界との接点であるような感覚を与えてくれたものである。

そしてそれは同時にぼんやりとではあったが、「いつかはあの飛行機に乗れるのだな」という思い、そしてそれをもっとふくらました未来一般に対するあこがれと希望のようなものを与えてくれた。

時はあたかも日本の高度成長が始まった時期である。テレビ、洗濯機、冷蔵庫の三種の神器が家庭に普及し始めた時期である。私が小松にいた時代は、洗濯機はほぼ普及しており、テレビが各家庭に普及をし始めた時期でもあった。そして1958年には東京タワーの工事が始まり、1959年には皇太子(現天皇)のご成婚があった。日本が後にジャパン・アズ・ナンバーワンと呼ばれる時期に向かって、上り坂をアクセルを踏んで加速し始めた時代である。(この頃の一般の生活については、私のブログの「米国の衰退」の項でも触れているので参照してほしい。)

しかしながら、友人達の言葉では最近の小松は衰退しているとのことである。小松製作所の工場の閉鎖が決定されたり、デパートが撤退したりしているらしい。かっての私の子供時代の記憶と強くつながった街の衰退の話を聞くのは悲しいものである。

しかし同時に当時の友人達がいずれもこの時代を生き抜いて、現在もたくましく生きているのを実感できるのはいいものである。

東大を出て弁護士をしているK君は、私が最近古典文学を読んだり古典芸能を鑑賞したりして何となくわかるという話をブログに書いているのに対し、しきりに同感してくれる。文系と理系に道が別れた人間同士が、半世紀の時間を経て単なる昔話に興じるだけではなく、同じ感覚・感情を共有できるというのは、人生の意味を改めて知ったような気持ちになり、いいものである。