シンガポール通信ー閑散期の学食

現在私の大学(シンガポール国立大学)は学期の狭間の休暇である。学生の姿が少ない。Canteen(いわゆる学食)は、普段はお昼休みなど学生で一杯で席を取るのも困難なので、時間をずらして食事をするようにしている。しかしこの時期は、お昼休みでもCanteenで食事をしている学生の数はまばらである。中華、タイ、インド、ベトナムなどいくつかの種類のレストランが店を出しているが、閉まっている店もある。開店している店でも、従業員たちは手持ち無沙汰の様子でぼんやりと立っている人も多い。

12月とはいえ気温は30度はあるだろう。しかし、7、8月の35度以上の気温に比較すると何となく涼しく感じる。今年ももうすぐ終わりである。Canteenで食事をしていると、今年も終わりだなという一種の感慨もしくは物悲しさのようなものを感じる。こちらの学期は、1月から5月までと8月から12月までなので、夏にも2ヶ月の休暇がある。しかし、夏休み中のCanteenで食事をしていてもそのようなことを感じることは少ない。たかだか学生が少なくて清々する程度の感覚である。ところが、この時期には物悲しさ、いいかえると無常観のようなものを感じることがある。

以前のブログで、シンガポールは1年中夏なので、季節の変化がない、したがって常に同じ感覚であり無常観のようなものを感じることが少ないのではと書いた。そうすると私が感じているものは何だろう。ある種の無常観ではないだろうか。シンガポールの気候は夏に比較すると温度は低いといえ、相変わらず日本の夏に相当するが、ある種の想像力が私の感情に影響して無常観的感覚を生起させているのだろうか。

例えば、現在日本は年末に向かっており、寒いだろう。人々はコートを着て師走の街を足早に歩いているだろう。シンガポールにいても、時にこのような日本の季節を思い浮かべたりする。そのような想像力が働いており、それが私の感情に影響しているのだろうか。それとも日本にいたときに染み付いた季節感によるのだろうか。いいかえると特定の時期と特定の感覚の結びつきが私の心に染み付いており、ある時期になるとその時期特有の感覚を生起させるのだろうか。

また別の説明も出来るだろう。変化が少ないとはいえ、夏に比較すると現在は温和な気候である。この微妙な差を体が感じ取って私の感情に影響を与えているという説明も出来る。もしそうだとすると、シンガポールに季節感はなくて、したがって無常観のようなものは生じないと書いたのは、言い過ぎであって、もしかしたら、この微妙な違いを感じ取ってそれに対応した感覚、感情をこちらの人々も持っているのかもしれない。

これは一度私の研究所の同僚の先生方と議論してみたい話題である。しかし何となく気恥ずかしい気持ちがする。彼等はこのような議論に乗ってくれるだろうか。いやそれ以上にこのようなテーマの意味をわかってくれるだろうか。というように考えること自体が、私が日本人的無常観を独自のものと考えている証拠なのだが。