シンガポール通信ー大学紛争の頃

京大で行われた国際会議参加に絡んで話題をもう1つ。

国際会議が行われたのは京大の時計台のある建物の中のコンファレンスルームであった。新しくなっているが、かってここは階段型の大講義室があったところである。そういえば、大学紛争の頃団交が行われたのはこの場所である。団交というのも懐かしい言葉である。会社で組合が経営陣相手にやる団交ではなくて、学生が教授を吊るし上げたのである。

そういえば、京大人文研の有名な先生方の講義を聴いたのもこの部屋である。当時の京大人文研と言えば、桑原武夫を筆頭にそうそうたる陣容であった。多くの先生方は学術面で有名であっただけではなく、その多くはマスコミにも名が通っており、新書などを通して我々理系の人間でも著書に接したことのある先生方がひしめいていたと言っていい。 私は理系ではあったが、人文研の名前に引かれて京大に入学したといっても過言ではない。

また、日本最初のノーベル賞受賞者である湯川秀樹博士の講演を聴いたのもこの部屋であった。建て直されているとはいえ、そのような場所で講演できることは一種の高揚感を与えてくれた。

と同時に大学紛争の頃を思い出した。大学紛争とは1968-70年頃の全共闘運動のことをさす。大学紛争は当時の若者の大多数に多かれ少なかれ影響を与え、その後の人生を変えるきっかけともなった重要な出来事である。私にとっても、とても一度に書ききれない経験をしたのでこのブログでも何度か触れたいと思うが、とりあえずエピソードを1つ。

京大でも学生紛争が吹きあれて、時計台が全共闘の学生達によって封鎖されていた時期があった。私自身はそれほど学生紛争に関わった訳ではないが、全共闘の学生の尻馬に乗って機動隊に石を投げたりもした。当時はマルクス主義者の美濃部亮吉氏が東京都知事を務めていたこともあり、日本の政治体制が変わるかもしれないという予感はしたものである。

しかしながら結局、私が学生紛争にのめり込めなかったのは、いくつかの出来事があったからではないかと思う。その1つとして、全共闘の学生と機動隊の衝突を「見学」して、その後下宿に帰る道すがら警官の職務質問を受けたことがあった。京大の学生証を見せるとすんなり通してくれたのであるが、その時その警官が「ところで学生さんが騒いではるのは何か目的があるんでっしゃろか」と京都弁で訊いて来たことをおぼえている。学生紛争を契機に日本の政治体制が変わる可能性のあることを教えてやると、「ヘー、たいしたことを考えてはるんですなー。遊んではるんかと思てました。」とこれも京都弁の答えである。警官も日本の支配体制を支えている一員であると身構えている私に対してなんとも気の抜けた返答である。振り上げた拳の落としどころに困るというのはまさにあの場にビッタリの言葉であった。

また別の日に、その日は私も調子に乗って機動隊に石を投げたりして、日本は変わるかもしれないと考えながら意気揚々と帰途についていた時のことである。学生と機動隊の衝突している場所からほんの数百メートルと離れていないパチンコ屋の前を通った。ところが、そのパチンコ屋が満員なのである。こちらは日本の政治体制を変えてやるんだと意気込んでいるのに、一般庶民は我関せずでギャンブルに興じている。「けしからん、何だこいつらは」という怒りを感じるのと同時に、心の中の高揚感が空気が抜けていく風船のようにぺしゃんこになっていくのを感じた。

その後、しばらくして学生紛争は下火になった。クールに言えば、学生紛争は学生達の独りよがりの運動であって、世の中の活動とは何の関わりもなかった、そしてそのために下火になった、という言い方が出来る。しかし、上のエピソードは、私がそれを身を以て体験したことを示しており、またそのことが、私を学生紛争に本格的に関わるのをとどめたのではないだろうか。