シンガポール通信ー文化とコンピュータ2

ご存知のように「ロゴス」は人間の知性の部分に対応し、「パトス」は感情・情熱や本能などの部分に対応している。プラトンなどを読むと、ロゴスがパトスを制御するのが人間としてあるべき姿であると書いてある。いわゆるロゴスのパトスに対する優位性である。この考え方は、それ以降の西欧の哲学の歴史にとどまらず、西欧世界の中で基本的な考え方として保持されて来た考え方であると思われる。

これも有名な話であるが、プラトンは詩人や劇作家などアート創作活動に携わる芸術家を、人々特に若者を惑わすものとして非難し、追放すべきであると述べている。これは過激すぎる発言であり、多分後世の人々を混乱させたのであろうが、パトスには情熱などの人間を高みに引き上げる正の面と、本能などの負の面もしくは獣的部分があることを知ると納得できる。

プラトンはこれを二頭立ての馬車に例えており、御者をロゴスに例えている。そしてロゴスである御者がパトスである馬を上手に制御することが人間に求められていることであると書いている。これを読むと、彼が詩人や劇作家を非難しているのは、人間を高みに導く優れた芸術家を非難しているのではなく、人間の持つ本能的欲望などに直接訴えるいわば低次元の芸術家を非難していることがわかる。

これは、ゲームを非難する現代のマスコミや評論家の態度と驚くほど似ていないだろうか。ギリシャ時代を知ると、現代同じ現象が生じていることを知ることが出来るのである。歴史に学ぶという言葉は良く聞く言葉であるが、私自身ギリシャ時代と現代との類似性をこのような面に発見して極めて興味深いと感じた。

さてそこで私が言いたいのは、ギリシャ時代に始まり、その後西欧の長い歴史の中でつちかわれてきたロゴスのパドスに対する優位性が最近崩れつつあるのではないかということである。別の言い方をすると、ロゴスをパトスから切り離し、ロゴスこそが人間の人間たるゆえんであると考えて来た西欧文化において、ロゴスとパトスが再び接近し、融合しようとしているのではないかということである。

これまで特に西欧社会においては、公的なふるまい(会議での発言、ビジネスでの会話、など)と私的なふるまい(他人の悪口を言う、本音を言う、など)を明確に分けようとして来た。逆に、それをあまり明確に区別しない日本に代表されるアジア社会が、遅れているとして非難される理由になって来た。ところが最近、西欧社会でも例えば会議時やディナー時に多くの人が携帯のメッセージをチェックしているのに代表されるように、両者が混在し始めているのである。

このロゴスとパトスが再び混在しはじめているというのが、現代という社会の1つのキーワードではないかと最近感じている。近々発売する本にはこのことをコミュニケーションという切り口で論じているので、興味のある方はぜひ読んで頂きたい。同時にブログを通して、その考え方を広げていきたいと考えている。