シンガポール通信ー映像の力2

さて、前にブログの記事にも書いたが、私はあまり写真やビデオは撮らない。かっては、写真を撮らないという主義を私自身に課していたこともある。それは基本的には、この映像の持つ力に対して私としてどう対応するかを考えた結果である。

名所・観光地に出かけると、人々が競うようにして写真やビデオを撮っている。観光地の風景を撮ったり自分たちの記念写真を撮ったりしている。これはどのような願望に基づくものかと尋ねると、多分、後で思い出すためや友達などに見せるためだと答えるだろう。いずれも人間として当然の気持ちであろうと思う。しかし特に、後で思い出すために写真を撮るという行為は正当性を持ちうるだろうか。記念にとか、後で思い出すためとかの理由により写真を撮ることにより、現在この時点で自分の目で対象を見ようとする努力を損じることになるのではないだろうか。つまり、写真に撮ってしまうことで安心して対象をしっかり見ないことになってしまわないだろうか。

対象をしっかり見て記憶にとどめるという知的作業ないしその一部を、写真を撮ることによって安心して行わないということは、いいかえると写真がそれを代行する力を持っていることを認めていることになる。かって写真が日本に輸入された頃、人々は「写真を撮ると写真に魂を抜き取られる」と噂したとのことである。我々はそれを昔話として笑ってしまうが、何のことはない、現在の我々も暗にそれと同じ力を写真に認めていることになるのである。

もっともしばらく前までは、写真を撮るとその後現像してアルバムを作るという作業を行うのが普通であった。この作業はある意味で写真に撮った風景なり人物像を記憶にとどめるという知的作業の一旦を担っていた。ところが現在の我々はどうしているだろうか。アルバムを作るという行為をしている人はあまりいないのではないか。大容量ディジタルメモリが普及することにより、撮った写真は整理せずにメモリに記憶したままにしておき、見直すことがなくなっていないだろうか。

家族や友人と共にアルバムを見る行為も、物事を記憶しまた整理し直すという意味で重要な知的行為である。それらをせず、単に写真を撮りっぱなしにするということは、それらの行為を写真が行ってくれると信じている訳で、何のことはない、無意識に写真に精神性を認めている、いいかえれば写真が魂を抜き取る力を持っていることを認めていることになるのである。

私は、観光地などで歴史的な建造物や自然の風景と向き合う時、この時この瞬間をなんとか自分の記憶にとどめようと努力して来た。いわば一期一会の考え方に基づいて行動してこようとして来た。そのためには、写真はむしろ意識的に撮らないという立場を取ろうとして来た。そしてある意味で粋がって「私は写真は撮らない」などと広言して来た。

ところが、最近どうもそれを貫き通すのが難しいのではと思うようになった。その1つは、私の葬式のときの遺影をどうするかという問題である。葬式のときに、遺影のための写真が全くないとか、もしくはあまり若いときの写真しかないのは問題かもしれない。とすると少なくとも5年おきぐらいには自分の写真を撮っておいた方が良いのかもしれない。もう1つは、自分では撮るつもりはなくても、強制的に記念写真を撮られることが多いことである。「私は写真は撮らない主義で」などと弁解しても、多分理解してもらえないだろう。したがって、記念写真を撮られるときは、基本的にはニコニコしながら撮られることにしている。

そして最後はブログである。他人のブログを見ると、大半が写真とその簡単な説明文からなる絵日記的なものである。このような絵日記的なブログを見ても何が楽しいのかという気もするが、同時に文章だけのブログも読んでいると疲れるのも事実である。自分のブログを見てもらうためには、写真を入れておくことが必要なのかもしれないと思うこのごろである。