シンガポール通信ー映像の力1

先週末(2009年12月11日〜13日)に京大で行われた「学術研究における映像実践の最前線」と題する国際会議に参加すると共に私自身も発表してきたので、その会議での議論などをベースに感じたことを書きたい。

この会議では、研究において映像をどのように活用しているか、また今後はどのように活用するかが中心的な話題であるが、当然ながらそこでは「映像が持つ強い力をどう使うか」が主要な議論の1つであった。「百聞は一見にしかず」という言葉に代表されるように、映像(ここで言う映像は、写真、絵画などの静止画像とビデオ、フィルムなどの動画像を含んでいる)はきわめて強い力を持ってそれを見る人に訴えかける。従って、映像を使うと言語による説明がなくとも、見る人にメッセージを送りつけることが出来る。そのため、映像は言語を超えて人々にメッセージを送る際に強力な武器となる。

しかしその力の故に、時には受け手に誤って解釈されたり、撮り手の意図と異なる結果をまねくことも多い。湾岸戦争の際に、油にまみれた鳥の写真が人々に、戦争が人間以外の動物にも及ぼす影響を物語るものとして強い印象を与えた。ところが後になって、湾岸戦争とは直接関係ない写真であることが明らかにされた。また、飢えた子供とその後ろにいる禿鷹が一緒に映っている写真が、ピュリツァー賞をとったことがあるが、「写真を撮らずに子供を助けるべきであった」という非難を受け、写真家が自殺に追い込まれた例など、映像の持つ力を示す例はきわめて多い。

私自身は、どちらかというと映像人間というよりは言語人間であると思っている。これは、映像にはそれほど影響や感動を受けず、むしろ書かれたものにより影響や感動を受けやすいという意味である。その意味で映像全盛の現代においては既に時代遅れの人種なのかもしれないが、それでも映像の持つ強い力を感じることはある。

その典型例を述べたい。1995年1月17日朝の阪神淡路大震災をおぼえておられる方も多いと思う。当時私は関西に単身赴任しており、休日あけに東京にある自宅から朝一番の新幹線で関西の職場に戻ろうとしていた。ところが東京駅に来てみると地震で新幹線が動かない、当面普及の見通しは立たないとのニュースである。今から思えば不謹慎なことであるが、「しめた今日はサボれる」と思い、自宅に帰ってテレビを点けてみた。

ところがテレビに映し出されたのはテレビ局のヘリからの 阪神高速道路が倒壊している生々しい映像である。「あっこれは大事だ」と瞬間的に地震の規模の大きさが直感的に把握できた。死者が数千人の規模で生じているだろうということも直感的に予測できた。ところが画面にかぶさるアナウンスは「現在のところ死者の報告はありません」という能天気なものである。報告はないかもしれないが、映像を見たら多数の死者が出ていることはわかるだろう。少なくとも「現時点では死者の報告はありませんが、映像から見ると多数の死者が出ているものと思われます。今後の報道に注意願います」程度のアナウンスは出来ないのかと怒りに駆られたことをおぼえている。結局6000人以上の死者が出るという惨憺たる被害であったことはご存知の通りである。

阪神淡路大震災は、私の父親や弟が関西に住んでいたこともあって、他にも私自身にとって大きな出来事であった。それについては別の観点から私が近々出版する本でも触れている。)

それ以上にあきれかえったのは政府の対応である。後で知ったが、テレビ局などのヘリが映像を流していた午前6時〜7時頃の時点では何の対応もしていない。ようやく8時過ぎに対策委員会を設置したらしいが、報告待ちで午前中には対策らしい対策はしていなかったようである。現在でも怒りを感じるのは、報告を待つ前にあの映像を見たのかということである。あの映像を見れば、それがまれに見る大きな災害であること、多くの死者が出ているらしいこと、すぐさま対策を講じるべきであることは自明ではないか。すぐさま戒厳令を発令し(現代日本戒厳令という仕組みがあるかどうか知らないが)、自衛隊に出動を命ずるのが政府の行うべきことであろう。当時の総理大臣は社会党の村山さんであった。私自身は村山さんは好きなタイプであるが、震災時のあの対応の遅さには怒りを通り越してあきれるとともに、社会党委員長が総理大臣になっても何も変わらない日本の政治システムに失望したものである。(続く)



会議の行われた京大講堂