シンガポール通信ー米国の衰退2

(前回の続き)

もちろん何も変化がないと言うのは誤りである。何より当時と現在で違うのは、インターネットが導入・普及されたことである。インターネットの普及と共に、メール文化、携帯文化が生じた。またマイクロソフトやアップルが生まれ、パソコンが普及した。最近であればgoogleが新しい種々の社会的インフラとでも言うべきサービスを導入している。

しかしこれらは、上に述べたそれまでの社会的インフラとは様相を異にするものである。それまでの社会的インフラがいわば物質的な意味での社会的インフラだとしたら、インターネットやパソコン、携帯に代表されるインフラは、いわばコミュニケーションインフラである。それまでも電話網というコミュニケーションインフラがあったではないかと反論されると思うが、それまでの電話はいわばビジネスユースのためのインフラであった。

インターネット、パソコン、携帯電話などは、ビジネスに止まらずエンタテインメントも含めた広い意味でのコミュニケーションをサポートしている。その意味でコミュニケーションインフラといっているのである。もっというと、それらのコミュニケーションが人々の日常の会話やエンタテインメントに使われているという点を強調すると、精神的なインフラの整備が進んだという言い方をしても良いかもしれない。

しかもそれまでと違うのは、米国で完成されたものが他の国々に導入されたというよりは、米国で生まれたにせよ、その導入は世界で同時並行的に生じていることである。いやむしろメールや携帯の使い方に関しては、いつでもどこでも携帯メールをチェックしたり、携帯会話をするなどの人々の行動形態は、日本で生じたことで後に他の国々に波及したものもある。

結局こういうことなのかもしれない。最近私が米国で訪問して強く感じたのは、物質的な意味での社会的インフラに関しては、米国は1970年代から進歩していないのではないかということである。それはつまり、人々の生活が基本的には変化していないことを示している。上に述べたコミュニケーションインフラの整備に伴う変化はあったにせよ、人々の日常生活での変化はあまり生じていないのではないだろうかということである。

コミュニケーションインフラの整備は人々の生活を劇的に変えたではないかという反論もあるだろう。たしかにそれはあたっている。しかし、上に述べたように、コミュニケーションインフラの整備により大きく変わったのは、ビジネス面での人々の行動パターンである。その変化は論理的行動を求められるビジネス場面に、常時携帯をチェックするなどの日常生活の行動、言い換えると感情的行動が混入して来たことを意味している。(このことは近々出版する本に詳しく記述してあるので、そちらをぜひ参照してほしい。)

それは2つの意味を持っている。1つは、一般の人々の基本的な行動パターンは米国といえどももともと感情的であったわけなので、人々の日常生活パターンには基本的な変化は与えていないということである。そしてもう1つは、ビジネス場面とそれ以外のプライベートな場面を峻別してきた米国文化から言うと、それはむしろ退歩ではないかということである。

少し極論すると、米国はすでに成熟した社会であって、下降もしくは退歩は必然ではないかという考え方も出来る。これについては継続して考えてみたいと考えている