シンガポール通信ー米国文化と日本2

(前回の続き)

さて、当時のテレビ番組の話に戻ろう。アニメは「ポパイ」、ホームドラマであれば「奥様は魔女」「名犬ラッシー」、西部劇なら「ローン・レンジャー」「テキサス決死隊」、アクションなら「スーパーマン」等々。特に日曜の午前中は米国製のドラマで埋め尽くされていたような気がする。日曜の朝目が覚めてから、布団の中でお昼頃まで兄弟や父親とこれらのドラマを見ていたような記憶がある。これらのドラマ、特にホームドラマを見て、米国の生活に憧れ、日本でのそのような生活ができたらと夢見たものである。

今や、日本で放映されている米国のテレビドラマはほぼ皆無であろう。西部劇に至っては本場の米国でも西部劇というジャンルそのものがほぼ消滅している。飛行機のエンタテインメントとして米国のホームドラマが提供されているが、日本人でそれを見る人はほぼいないだろう。今から思えば、日本と異なる行動様式を描いた米国のホームドラマをなぜ楽しめたのかという疑問も生じるが、当時は大まじめで(?)楽しんでいたのである。

と同時に、音楽でも米国製音楽の大量流入があった。現在でこそ日本にはJポップが存在しているが、当時は米国製のポップスがそのまま日本に導入され全盛であった。というより米国のヒットチャートがそのまま日本のヒットチャートになって若者に受け入れられていたのである。現在の日本のJポップ歌手に相当する当時の人気歌手は米国のポップスをそのままもしくは翻訳して歌っていた。坂本九、森山加代子などがそれにあたる。今から思えばザ・ピーナッツは独自の歌を歌っていた訳で、彼女らがJポップのはしりなのかもしれない。

同時期にロック(ロックンロール)も日本に入ってきた。なんといってもエルビス・プレスリー。彼のロックはある種の田舎臭さ・泥臭さを含んでおり、私たち日本の若者にも受け入れられやすいものであった。そして何よりも私の記憶に残っているのは、レコード店の小冊子に踊っていた”Elvis is back!”という文字である。エルビスが兵役から復帰して来たことを告知したものである。当時の学校における英語は、まだ発音、綴り、文法などイギリス英語の色が濃い何とも堅苦しいものであった。そのような堅苦しい英語に飽き飽きしていた私にこの言葉のなんと新鮮に映ったことか。これこそが生きた英語だと感じたのをおぼえている。同様に米国直輸入のポップスの英語のスラングにもショックを受けた。例えばニール・セダカの「恋の片道切符」は、今でも時々聞く機会のあるポッポスの名曲であるが、その英語の歌詞を見たときは「何だこれは」と思ったものである.文法もめちゃくちゃなら、綴りも学校で習うのとはまったく違う。例えばgoing toがgonnaになっているのである。しかしこれも生きた英語としてすんなりと受け入れることが出来た。

同時に今思い返しても興味深いのは、当時の日本人の生活様式は、相変わらず、ご飯にみそ汁を中心とした三食和食、そして畳をベースとした座る生活をしていたのである。そのような純和風の生活と米国発のテレビドラマや音楽が混在していたのが当時の日本人の生活様式であった。それが現在では、米国初のテレビドラマやアニメは日本発のテレビドラマやアニメに取って代わられている。生活様式に関して言うと、畳をベースとした生活から椅子に座る生活に移行している。そして音楽は米国のポップスの影響を強く受けながらも日本独自の特徴も持ったJポップが若者の文化の中心である。

いわば私たちは、米国文化と日本文化の良いとこ取りをした文化を作り上げている訳である。その間30年〜40年。長い歴史の中ではほんのあっという間であろう。多分、平城時代、平安時代に中国から大量の中国文化が流入したときにも同様の現象が生じたのであろう。

その意味で平城時代、平安時代に生じたことを我々は単に歴史としてしか見ていないが、確かに我々は歴史を今生きているのである。同時に日本人のこのしなやかさ(したたかさ等といっても良いが、私はこの言葉が好きである)というのは我々としては自慢していいのではないだろうか。