シンガポール通信ー米国文化と日本1

米国の力の低下が言われるようになって来た。実際にどうかということは別として、団塊の世代であり、米国文化の影響を受け続けて来た私としてはある種の感慨をおぼえざるを得ない。このことを話す時、どうしても私の小学・中学時代にさかのぼらざるを得ない。昔話になるが許して頂きたい。

1950年代の私の小学校時代の学校の授業の印象で、今でも強く印象に残っているものがある。社会科の教科書に日本と米国の車の保有状況の比較として、何人が1台保有しているかという記述があった。日本は約400人に1台であるのに対し、米国は2人に1台であるというデータに驚愕した。「日本では一生かかっても車を持つことはできないな」という、ある種の諦念を持ったこともおぼえている。(実際にはその後20年を待たずして、私も自分の車を保有することになったのであるが。)このことはある意味で、米国に対するあこがれのようなものを心の中に生み出した。私と同様団塊の世代に属する人たちは、多かれ少なかれ米国に対するある種のあこがれを持っていたといってもいいのではないか。

その後、米国文化が日本に流入して来た。戦争直後にも米国文化の大量流入があったと思うが、それはどちらかというと食料などの生きるための基本となる部分に関するものであったと思われる。小学校の給食にスキムミルク、パン、マーガリンなどそれまでの日本の食文化になかった食べ物が導入されたのはこのころである。

それに対して、1950年代後半から1960年代初頭はいわゆる米国の精神文化(といっても庶民レベルでの精神文化)が日本にどっと流入した。この時期は私の小学校高学年から中学校時代に相当する。ちょうど日本が高度成長時代に入り、まだまだ生活水準は低くかったものの日本の将来について皆が夢を持っていた時代である。

なによりもまずテレビを通して米国文化が流入した。現在からは考えにくいことであるが、米国のディズニーアニメ、ホームドラマや西部劇が当たり前のようにテレビのゴールデンアワーに陣取り、私たちは友達と共に食い入るようにこれらの米国直輸入の番組を見たものである。テレビが家庭に普及し始めた最初の一時期であるが、当時はテレビのある家庭の数が限られていたため、子供達が夕食の前後に近所の仲間と一緒にテレビのおいてある家にお邪魔し、テレビ鑑賞をするという習慣があった。それらの家の人々にとっては、夕食時に子供達がやって来て居間を占領しているというのはさぞかし迷惑なことであったと思うが、今から思えば当時の人々はある意味で鷹揚であった。

同様のことが電話でも言える。当時はまだ電話も貴重品であって電話のある家は限られていた。目的の人に電話するには近所の電話のある家に電話して呼んでもらうのである。したがって、学校などの名簿の電話欄にはこのような場合(呼)という記号が入っていた。テレビにしても電話にしても、持っている人たちが持っていない人たちに無償のサービスをしていた訳である。もちろん今でもボランティア活動というのはあるが、当時はそれがごく自然な形で人々の行動原理として根付いていたのである。(電話の話は私が近く出版するコミュニケーションに関する本の中にも出てくる。ぜひそちらの方も読んで頂きたい。)まさに”Old Days But Good Days”という時代であった。(続く)