シンガポール通信-2016年はVR元年なのか?:2

前回、HMD(ヘッドマウンテッドディスプレイ)における解像度の向上やレイテンシー(頭の動きとそれにつれた映像の動きの時間的遅れ)の減少が、HMDを使ったゲームの面白さとは直接関係しないことを述べた。

と同時に、昨年から今年にかけてのこれらの技術の進歩は、あくまで漸進的なものであり革新的なものではないことも重要である。従って、特に今年を取り上げて「VR元年」というのは正しくないというのが、私の認識である。もしそのように呼ぼうというのがVR業界の共通の認識であるならば、それはVR機器やそれを用いたゲームの売り上げをなんとか伸ばしたいという、VR業界の商業的なおもわくにもとづいたものだろう。

多分VR業界、特にHMDの生産・販売を行っている企業にとっては、HMDを家庭におけるゲームなどに使ってもらい売り上げを大きく伸ばしたいというおもわくがあるのだろう。しかしそこは冷静に考える必要があるのではないか。私自身は、HMDを用いたVRというのはあくまでゲームセンターやテーマパークのような特別な場所に限られ、一般の人々が家庭において使ったり歩きスマホのように歩きながらや電車やバスの中で使うという現象は起こらないと思っている。

その最も大きな理由は、HMDのように目を覆い隠すような機器を装着するという行為が、人間の感覚特に日常生活における感覚に反するのではないかと考えるからである。ゲームセンターやテーマパークのような特殊な場所言い換えればハレの場では、日常生活とは異なった体験を人は求める。その意味では、HMDのような特殊な機器(ガジェット)を装着するということも日常生活とは異なった体験であり、人はそれを求め楽しむだろうと考えられる。

しかし、日常生活における人の振る舞いは、実は太古の昔からそれほど異なっていない。特に人同士のコミュニケーションは日常生活において極めて重要な役割を果たしており、対面型のコミュニケーションにおいては目と目を合わせる行為(アイコンタクト)がコミュニケーションの基本となっている。

そういうと、サングラスをかけて目を見えないようにすることが、ごく普通に行われているではないかと反論されるかもしれない。しかしながら、サングラスの使用は日差しの強い観光地などで使われることが多く、サングラスをつけたままでの会話は友人同士のようにすでに素顔を知っている間でのコミュニケーションに限られるのではないだろうか。初対面の人とのコミュニケーションをサングラスをつけたまま行うということは、あり得ないと言っていいだろう。

タレントのタモリはサングラスを常時かけていることを一種の自分の特徴として売っているが、彼のサングラスが色が薄く素顔が透けて見えるようになっているのも、目や視線が見えないというのは視聴者にとっていい印象を与えないからという配慮をしているのではないかと考えられる。

HMDの製造・販売を行っている企業は、人々の間にHMDの使用が広まり現在歩きスマホポケモンGOに代表されるように人々が歩きながらゲームをしている延長として、人々が道路を行き交いながらHMDを装着してゲームをしたりVR空間を介したコミュニケーションをしている未来を期待しているのではないだろうか。HMDを装着した人々が道路を行き交う都市の風景というのは確かに未来的である。しかしそのような未来は生じないと断言していい。

これまでもSFなどでいろいろなありうる未来が描かれてきた。そしてその多くが、HMDを装着した人々が行き交うというような異様な未来像である。しかし現実には、そのようなことは起こらなかった。これはSFが予見した未来が起こらなかったのというのではない。ある意味でSFが予見した未来はすでに現実となっている。ただしその表面的な見え方が、SFが予見したものとは異なっているということなのである。

例えば映画「マトリクス」では、人々の脳が繋がれコンピュータによって支配されている未来像が描かれている。これは暗い未来像であり、そうはならないだろうと多くの人々は楽天的に考えている。しかしながら、常時すべての人がネットワークで結合されている状態というのは、人が常時FacebookTwitter・Lineなどで繋がってコミュニケーションをしている現在において、すでに実現されているのではないだろうか。

しかもそのコミュニケーションのやりかたは、FacebookTwitter・Lineの持つ機能に制限されているのである。このことは、人々の考え・行為がコンピュータによって制限されるもしくはもっと強い言い方をすると支配されているということもできるのである。

このことは、マトリクスが描く未来はすでに実現していると考えられることを示している。しかしそれは、人間が脳だけの存在となりそれぞれの脳がネットワークでつながっているというマトリクスで描かれた形ではなくて、人々が常時スマホを持ちFacebookTwitter・Lineなどを用いたコミュニケーションにどっぶりつかっている現在という形で実現しているのである。

これを悲観的に見るのか楽観的に見るのかというのは別に議論する必要があるだろう。ともかくも、SFに描かれた未来の多くは実際に実現している。しかし少なくとも実現したその仕方はSFが描くような暗い未来像ではなかったことは確かである。ここには、人々の日常生活の過ごし方が、太古の昔から行ってきた日常生活の過ごし方と現在もほとんど変わっていないという、人間の極めて保守的な面が現れている。ということは日常生活の表面的な過ごし方今後も多分変わらないだろうというのが私たちが歴史から学ぶべきことだと考えられる。