シンガポール通信-日経新聞論説「人工知能の光と影」:安易なAIブームに対する警鐘2

少し時間が空いたが、日経新聞の論説に載った西田豊明教授と西垣通教授の共著による人工知能(AI)ブームに対する警鐘に関する感想の続きを書いておこう。

西田豊明教授の論調は、現在のAI研究の急激な進歩を念頭に置いて、AI研究の進むべき方向やその応用をよく考えるべきで、特に応用に関してはAIの暴走などを防ぐために早めに議論を進めて規制などを決めるべきだというものであった。それに対して西垣氏の論調は、現在のAIブームいいかえればAI技術が近い将来に人間の知能を凌駕するのではといった楽天的な予想そのものを否定する論調であって、私自身が普段から考えていることにかなり近いものである。

まず西垣氏は、囲碁や将棋のAIソフトが人間のチャンピオンを破ったとしても驚く必要はないと論じる。そしてその根拠として、自動車が人間より速いからといって誰も騒がないではないかということを挙げている。これは少し補足説明が必要である。

囲碁や将棋のAIソフトが人間のチャンピオンを破ったことを、なぜマスコミなどがあそこまで大きく騒いでいるのだろうか。それは囲碁や将棋を指すということが人間の知的活動の代表的なものであり、そのチャンピオンが天才として人間の知的活動の優秀さを示す代表人と考えられてきたからである。人間の知的活動の優秀さを示す代表で天才と考えられてきた囲碁のチャンピオンをAIソフトが破ったということは、AIが人間のレベルに追いつき追い越そうとしていることを示す証拠ではないかというのが一般の論調である。

それに対して西垣氏の主張は、囲碁や将棋を指すという能力は人間の能力のごく一部に過ぎないというものである。そして、100m走やマラソンにおける速さなどの同レベルのものであって、100m走やマラソンで人間が自動車という機会に負けても普通なのになぜ囲碁や将棋で負けると騒ぐのかという論理展開をしている。そして頭がいいとは何か言い換えれば知的活動とは何かを考える必要があるとしている。

ここは大変重要な部分である。多くの人は私自身も含めて、囲碁や将棋を指す能力というのは人間の知的活動の中でも最も中核的なものであるという考え方を頭のどこかでしていたし、そして現在もしているのではあるまいか。だから囲碁や将棋のAIソフトが人間のチャンピオンを破ったことが極めてセンセーショナルなニュースとなるのである。

私たちは、論理的な計算の速さでコンピュータが人間をはるかに凌駕していることには、何も不思議さを感じないようになっている。しかし囲碁や将棋はそれとは異なるもの、直感などもっと高次の知的能力だと思ってきたのではないだろうか。これに対して囲碁や将棋のAIソフトが人間のチャンピオンを破ったという事実は、囲碁や将棋を指すという能力も純粋に論理的なものであって、直感のような高次の知的能力とは関係ないというように考え直すことを、私たちに迫っているのではなんだろうか。

そうすると西垣氏が主張しているように、「頭がいいとは何か」「人間の知的能力とは何か」を私たちが真剣に考えるべき時に来ているのではないだろうか。囲碁や将棋のAIソフトが人間のチャンピオンを破ったということは、人間の知的能力のうち論理で表現可能な部分に関しては、いずれ全てコンピュータの方が人間を凌駕するということを示している。

そうすると、人間の知的活動のうち「非論理的な知的活動」の部分こそがコンピュータでは代替できないものということになる。具体的には非論理的な活動とは、直感力であったり、美を感じる能力であったり、感情であったりする。つまり西垣氏の主張に従えば、私たちは今後は論理的な知的活動はコンピュータに任しておいて、非論理的な知的活動がどのようなものかを考え、そしてそれらの能力を伸ばす方法やコンピュータがそれをサポートする技術の研究などを行うべきだということになる。

この論理展開には私自身は賛成である。問題はそれをどう進めていけばいいのかということになる。ここで問題となるのは「非論理的な知的行為とは何か」を考え議論していく段階で、私たちは主として言語を用いることである。言語は基本的には論理を表現するものである。論理ではないものを論理で表現しようとすることは、自己矛盾である。これをどう扱えばいいのだろう。

これに対して現在取られている方法論はいずれも、直感とか感情を論理で表現しようとするものである。たとえば感情の動きを表現する感情モデルを考えたり、直感的な思考をモデルで表現しようとするものである。このような進め方の可否を議論することはあまりないが(なぜなら現時点ではこれしか私たちは方法論を持っていないから)、極めて重要な問題を含んでいる。

それはもし人間の非論理的な知的活動を私たちが現在持っている方法論に基づいて論理で表現することができないなら、このような研究は不毛であることを意味している。そして逆に現時点では非論理的な知的活動を考えられているものが論理で表現できるならば、それは一部の人が主張しているように近い将来AIが全ての面で人間を凌駕することが可能になることを意味しているからである。

なんだか問題が大きくなってしまったが、この問題は今後とも私自身の問題として考えていく必要があると考えている。