シンガポール通信-ミンスキーの死去と碁ソフトがプロに勝ったニュースについて:4

人間の感情の働きに関しては、工学の分野というより心理学などの分野でこれまで多くの研究が行われてきた。しかしながら感情の働きにおける信頼の置けるモデルは、まだ提案されていないといえるだろう。ここでいうモデルとは、ある状況を入力してやるとそれに応じた適切な感情を出力するコンピュータモデルと考えていい。それは数学的なモデルでもいいし将棋や碁の局面の評価に用いられているニューラルネットでもいい。

将棋や碁のソフトの開発において、ビッグデータディープラーニングが極めて有効であることを先に述べた。これは、ある将棋や碁の局面において、プロ棋士やプロ碁士がどのように打ったかという膨大なデータを集めておき、それをニューラルネットを用いて学習させる(この際にディープラーニングの手法が用いられる)という手法を用いる。

すなわちそれぞれの局面において、プロ棋士やプロ碁士がもっとも打ちそうな手を学習に基づいて決定するわけである。当然ではあるが、感情の場合においても同様の手法が用いることができるのではないかという疑問が生じる。

すなわち特定の場面で人がどのような感情を持つかというデータを膨大に集めておいて(ビッグデータ)、これをコンピュータに学習させる(ディープラーニング)という、将棋や碁のソフト開発の際に用いられた手法と同様の手法を使って、それぞれの場面で人が持つ感情を予測させようというわけである。

このれは誰でもが持つ考えであるが、このような素朴な方法がなぜうまくいかないのだろう。それは一つには、人間の持つ感情が分類が困難であるということによるのではないだろうか。人間の感情は「喜怒哀楽」と言われるように、例えば4つの感情に分類されるということがよく言われる。しかしながら容易にわかるように、実際には現実はそのように単純なものではない。感情の強弱もあるだろうし、複数の感情が入り混じった状態の場合もごく普通に生じる。実際、前記の4感情に対して、8感情とか16感情などのモデルも提案されている。

また同じ場面でも、人によって異なる感情を持つ場合も多い。いやそれ以上に、同じ人でも同じ場面で異なる感情を持つことが多いのは、私たち自身が日常生活の中で経験することである。

そしてそれと同じもしくはそれ以上に複雑なのが、場面もしくは状況の定義である。ある場面をどのように定義すればいいのだろうか。将棋や碁の場合は、局面とは将棋の駒や碁石がどのように配置されているかということで定義される。もちろん局面の数は膨大になるが、それぞれの局面というのは明確に適宜できる。

しかしながら人の置かれた状況をどのように定義するかは、それ自身が極めて困難な問題である。いってみれば、感情を扱う研究者によって定義が異なるということすら生じる。つまり感情の定義や分類、また感情が生じるそれぞれの場面の定義や分類が極めて困難な問題であるということなのである。このような状況ではいかにビッグデータディープラーニングの手法が極めて強力であると言っても、なかなかそれを実際に適用することができないというのが実情なのである。

さてそれでは人間の感情の働きをも含めて人間の知的な活動を代行する人工知能は、2045年に予想されているシンギュラリティまでに実現可能なのだろうか。これは現実的な回答としては「現時点ではわからない」と答えるしか仕方がないのではないだろうか。

人間の心の働き特に感情は、コンピュータで置き換えられないという考え方は根強い。確かに私たち自身が自分の感情の働きに不合理的な面があることはよく理解しているといえるであろう。「人間の特徴は首尾一貫性に欠けることである」とは、英国の文豪モームの言葉である。首尾一貫性に欠けるものをコンピュータが扱うのは極めて困難であるというのは私自身も感じるところではある。

しかし同時に、チェス・将棋・碁などのボードゲームをいかに人間がプレイしているのかはつい数十年までまったくわかっていなかった。そのためにチェス・将棋・碁のプロ、特にチャンピオンが持つ能力は神秘的なものとみられていた時代がある。そしてそれこそが、チェス・将棋・碁のチャンピオンが尊敬や敬虔の眼差しで見られてきた理由なのである。

それが近年の人工知能研究の急激な進歩によって、これまで神秘的と考えられていたチェス・将棋・碁を打つ能力をコンピュータで置き換えることが可能になったのである。2015年10月に情報処理学会が「コンピュータ将棋プロジェクトの終了宣言」を出したということは、将棋を打つ人間の能力が神秘的なものでもなんでもないという意味であって、言い換えると棋士の能力の神秘性を否定した宣言なのである。(これはそれほど大きなニュースにならなかったが、この宣言の持つ意味の大きさはもっと注目されていいと私は考えている。)

とすれば、現時点で神秘的と考えられている人間の感情の働きを、コンピュータで置き換え可能な時代が来ないとは言い切れないのではないか。ただこの議論で抜けている部分があるとすれば、それは人間の感情の働きが時代とともに変わる可能性があるということである。これを次に考えてみる必要があるだろう。