シンガポール通信−論文剽窃が現実問題に!!

今年は、理研小保方氏のへネイチャー論文の不正問題や彼女の博士論文が他の論文から数十ページ盗用していたことに代表されるような、研究者の不正事件がいろいろと話題になった年である。特に小保方氏の博士論文における他人の論文の盗用は、インターネット時代の一つの象徴的な事件である。

インターネットの普及により、多くの記事・解説・論文などの著作物が容易に手に入るようになり、それをコピー&ペースト(いわゆるコピペ)することにより自分の文章とする事が容易になった事がその背景にある。

かっては他人の文章をコピーすることは容易ではなく、手書き入力かキーボード入力かは問わず自分で手入力する必要があった。そのため他人の文章を参考にしたとしても、それを自分で手入力する際には自分流の文章に変わるという事が普通であった。これならば、他人の文章を参考にしたとしても、それをいったん自分の頭の中で自分の考えとして再整理し、自分の表現として出力するという過程を経ることになる。

他人の思想・科学技術成果などを理解しそれをベースとして自分の思想、自分の科学技術成果を追求するというのは、人間が長い歴史の間に行って来た行為であり、それは人間の思想・科学技術の発展の歴史そのものであると言ってもいい。したがって、他人の思想・科学技術成果を参考にする事自体は全く正当な行為である。

従って本来はコピペそのものが悪の本質であるというわけではない。本質的な悪は、他人の思想・科学技術成果などを盗み、あたかも自分が作り出したものであると主張することにある。しかしながら、これらの成果の多くは「文章」の形で表現されるものである。したがって、他人の文章をそのまま用いる事は他人の成果を盗む事に通じるため、これらの行為が厳に戒められて来たのである。特に小説などの著作物は文章そのものが成果物であるため、作家等が他人の文章をコピーする事に対しては厳しい社会的制裁が課せられて来た。

しかしながら、科学技術においては成果が文章とは別物として存在している事が多い。そして論文はその成果を直接的に示すというよりは間接的に示すものであるが故に、研究者の間におけるコピペに対する罪悪感は、小説家が他人の文章をコピペする事に比較すると薄いのも事実である。

大学の先生方が集まると良く出る話題として、学生にレポート提出を課題として出すと多くの学生がwikipediaなどに代表されるネット上の文章をコピペしてくるというものがある。私自身も日本の大学で教鞭をとっていた時にはこれには悩まされた。しかしながら上記のように、研究者の間ではコピペを絶対悪とする文化が育って来ていないために、「最近の学生はしかたがないな」という苦情を先生同士で言い合う事に終っている場合が多かったのではなかろうか。

しかしコピペが容易になるのに伴い、論文等におけるコピペが厳しく糾弾されるようになりつつある。先の小保方氏の博士論文においても、それが論文の中核部分でなくとも他人の論文を長々とコピペした事に対しては非難が集中し、これだけが理由ではないにせよ博士号の取り消しという事態に発展した事は、ニュースでよく知られた事実である。

しかし私自身は、このニュースを聞いても他人事のように感じていたことを認めなければならない。私たちの世代は先に述べたようにコピペが困難であったこともあり、他人の文章をそのままコピーするという行為はほとんどの研究者が行おうという気にもならなかった。そしてそれが研究者倫理として正しくないという考え方と結びついていたため、他人の論文の剽窃というのはかってはあまり話題にならなかった。そのため、博士論文で他人の論文を剽窃するという小保方氏の行為があまり現実味を帯びた事件として私には感じられなかったのではないだろうか。

しかしどうも事態はかなり深刻なようである。コピペが容易になったため、多くの学生がレポート提出時などにおいてコピペを行う事があたりまえになってきたのが現状ではあるまいか。そしてそれを監視する教員側も、レポート程度なら仕方がないという考え方になりがちだったのではないだろうか。もちろん、卒業論文修士論文そしてその延長にある博士論文や学術論文においてはコピペは悪であるという考え方は教員側には身に付いているであろう。

しかしながらインターネット世代の学生にとっては、レポートでコピペをしてOKなのであれば、その延長として卒論・修論・博論などでもコピペをしても認められるのではないかという考え方が普通であったとしてもおかしくはない。

(続く)