シンガポール通信−土井たか子氏の死去に思う

土井たか子氏が9月20日に死去された。1928年生まれであるから85歳である。死因は肺炎とのことであるが、高齢の方の多くが肺炎という形で死去されるのを見ていると、老衰の結果風邪などのちょっとした病気から肺炎になりやすく、その結果死に至るという例が多いようである。その意味では老衰での死去という言い方が正しいのではあるまいか。大往生といってもいいのだろう。

土井氏は、出生地は兵庫県神戸市で大学は同志社、大学院も同志社ということで、生粋の関西人である。私も関西人であり、ある種の親しみを感じるのはそのためだろう。土井氏は1969年の衆議院総選挙に日本社会党から出馬し初当選した。そして1983年には日本社会党副委員長、そして1986年には社会党の委員長に就任した。党史上発の女性の委員長であり、憲政史上でも初の女性党首であった。

土井氏は、そのはっきりした物言いから党内が混乱していた社会党をまとめるリーダーシップを発揮し、「護憲」を旗印として社会党を牽引した。1989年の参議院選では自民党過半数割れに追い込み、その時の「山が動いた」という言葉は時の流行語にもなった。
1990年の総選挙ではいわゆる「おたかさんブーム」を引き起こし、社会党議席数を51議席と増加させ136議席を獲得した。この頃が土井氏の絶頂期であったであろう。

しかしながら1991年の地方統一選挙で社会党は敗退し、その責任を取って土井氏は社会党委員長を辞任した。そして1993年の総選挙では社会党議席半減の惨敗を喫する。しかしながら総選挙後に細川護煕を首班とする非自民・非共産連立政権の枠組みが固まり、両院で過半数を確保している連立与党により土井氏が衆議院議長に推され、衆参通じ女性初の議長になった。

1991年の地方統一選挙、1993年の総選挙などを通した社会党の衰退には1991年のソ連邦の崩壊が大きな影響を与えている。マルクス・レーニン主義に基づく共産主義の終焉である。そしてそれは同様の理念に基づく社会主義の終焉でもあった。社会主義に絶対の基盤を置く日本社会党は、すでに時代遅れの党になりつつあったのである。

土井氏は社会主義を自身が絶対的によって立つ立場としていたと私は思う。その意味で社会党は、日本を社会主義に導く党として人々から認められ、そしてその人々の期待を背にして、資本主義をバックボーンとする自民党と鋭く対立というのが本来のあるべき姿だったのである。

そして土井氏が社会党委員長を務めていた時代の社会党は、まだそのような党としての存在意義を維持していた時代である。それは土井氏が自らの信じる所に従って党を運営できた時代でもあった。土井氏にとって幸せな時代であった訳である。

その意味で1993年の総選挙後の連立政権時代は、すでに社会党がその存在意義を失いつつあり、非自民・非共産という枠組みの基でのみ連立政権が成り立った時代である。衆議院議長としての土井氏は高い地位を保っていたとは言うものの、それはすでに社会党党首として日本を社会主義国家にするという目標に向けてひた走るという土井氏の理想の姿からは遠いものであったのではないだろうか。

土井氏にとっても決して意に沿ったポジションではなかったのではあろう。そのためかその期間中には、従来議長が議員を呼ぶ際に「君付け」していたものを「さん付け」でよぶなどのある意味で些細なことがらでしか、土井氏は自身の存在をアピールできなかったのではあるまいか。

そして1996年に社会党社会民主党いわゆる社民党に改名する。すでに民主という名前を旧社会党の中に取り入れる必要がある時代になっており、社会党は事実上消滅しつつあった訳である。社民党は党首を村山氏から土井氏に交替させて同年の総選挙に望むが、社民党議席は解散前の30議席から15議席に半減した。社会民主党党首という地位は持っていたものの、土井氏の政治家としての役割はこの時点で終ったといってもいいのではあるまいか。

土井氏の死を報じる新聞には、同時に土井氏を惜しむ多くの声が載せられている。かっての政友だけでなく、自民党などの社会党と相対する立場の政党に属する政治家からも土井氏の死を惜しむ声があがっている。

それは社会主義という自らのよって立つ原理・哲学が時代遅れになりつつあることを感じながらも、ぶれることなくその原理・哲学に殉じた一人の政治家に対してのものであろう。そのような孤高の社会主義者としての土井氏の生き様は高く評価できる。

しかしながら土井氏があまりにも社会主義によって立つ自分の立場にこだわったために、北朝鮮よりの言動などが非難される場面もあった。北朝鮮による日本人拉致問題が取りざたされるようになった時に、「そのようなばかなことがあるはずがない」と記者の質問を一蹴した場面は私も良く覚えている。

社会主義を信じる立場からはたしかに共産主義国家が他国民を政策として拉致するなどということが起こる訳がないと信じていたのであろう。しかしその後ほどなくして北朝鮮による日本人拉致が真実であることが明らかになった。このころからいわゆる「土井節」もその明快さ・強烈さを失って行ったように私には思える。一つの主義を貫くということはなかなか大変なことなのである。