シンガポール通信ー橋下発言はなぜ海外から非難されるのか

日本維新の会橋下徹代表の旧日本軍の従軍慰安婦問題に関する発言が、内外から非難を浴びている。特に海外から、「言語道断」などの非難をあびている。本人も少し低姿勢になって来たようであるが、基本的な主張そのものは変えていない。彼の発言さらには態度の何が、海外から大きな批判を浴びているのだろう。

橋下氏が非難をあびている発言は、「戦争時に従軍慰安婦は必要、他の国でもやっているではないか、日本だけが非難されるいわれはない」という部分である。ここで問題はどうも橋下氏自身が、いまだにこの発言がなぜ大きな非難を浴びているのかを理解していない所にあると、私は思っている。そして実は、これは橋下氏だけではなく日本の政治家にしばしば見られる典型的な誤りなのである。

特に大きい非難をあびているのは「従軍慰安婦は必要である」という部分であろう。この発言の何が間違っているかを考えてみよう。従軍慰安婦は現実問題として過去に日本も含め他の国々の軍隊において存在した事は確かである。しかしだからといって、それは道徳的に正しいもの認められるものではない。本来あってはならないものであるが、人間の性のゆえに根絶する事が出来ないものであろう。いいかえると「必要悪」である。それを公然と「必要」であると言ってしまった所に、彼の最大の誤りがある。

「必要悪」であっても「必要」であることに変わりはないではないか橋本氏は思っているのであろう。そしてその故に、なぜあれほどにも海外から非難されるのかが、多分彼には理解できていないのであろう。なぜこの発言が大きく非難されるのかを説明するには、このブログでも何度か述べて来たが西洋哲学に基づく欧米の基本的な考え方を理解する必要がある。

西洋哲学はプラトンに発している。プラトンは人間の心を「ロゴス(論理)」と「パトス(感情)」に大きく二分している。さらにパトスには芸術と関わる「情熱」と人間の本性に関わる「本能」の部分があると述べている。そして人間にとって必要なのはロゴスの働きを高める事であり、同時に本能は抑えるべきものであり、ロゴスが情熱の力を借りてそれを制御する力をつける事が必要であると述べている。

従軍慰安婦問題は性の問題、まさに人間の本能に関する問題であり、本来は抑えるべきもの、制御すべきものなのである。したがって兵隊の性の問題は本来は抑えるべきものであり、道徳的には従軍慰安婦をおくというのは許されるべきものではないというのが、西洋哲学に基づく欧米の考え方である。しかし同時に、本能は強制的に抑えつけようとしても抑えられるものではない。無理にそれを行おうとすると、別の形で暴発する事につながる。例えば精神的におかしくなる兵隊が出てくるなどの問題が生じるだろう。

したがって従軍慰安婦というのは、本来はあってはならないものであるが必要悪として認めざるを得ないというのが欧米の見方であろう。そのため従軍慰安婦の取り扱いに関しては、それが欧米の国々でも存在するにせよ、極めて慎重に行われて来たと考えられる。女性を強制的に従軍慰安婦にするため連行するなどは、たしかに言語道断の行為なのであろう。

ところが橋下氏はそれを「必要」であると言ってしまった。「必要悪」ならばそれはパトスの世界の出来事であるが、「必要」というのはロゴスの世界の出来事である。必要と言ってしまうと、それはつまり道徳的にも認められるべき事、もっというと「正しいこと」になってしまう。ロゴスとパトスに基づけば(別の言い方によれば西洋二元論に基づけば)「必要」と「必要悪」はまったく異なる意味を持つ。橋下氏はこれを理解せず「必要」と「必要悪」は同じようなものと理解していると思われる。ここに彼の最大の誤りがある。

もう一つ大きな問題として「建前」と「本音」の問題がある。彼は「建前論で言っても仕方がないので本音で発言した」などと言う事がある。これは果たして正しい態度であろうか。これは上のロゴスとパトスの問題とも関連がある。建前はいわば論理の世界の問題であり、したがってこれはロゴスに対応する。かたや本音は感情に基づく気持ちの問題でありこれはパトスに基づく。「建前で言っても仕方がない」という発言は、西洋哲学に基づく西洋的考え方に反する発言なのである。

(続く)