シンガポール通信ー村上春樹の小説をもっと読むぞ

村上春樹の「1Q84」がなかなか面白かったので、もう少し彼の他の小説も読んでみようという気になった。先週末はチャイニーズニューイアー(日本で言うと旧正月)で帰国していた。この間はシンガポールではレストランなど閉まっている店が多く、単身赴任者にとっては何かと不便である。かっての日本の正月のようなものである。

もっとも日本の正月も、最近は元旦から多くの店が開いており、かっての正月とは全く別のものになってしまった。凧揚げ、コマ回しなどはとっくの昔に姿を消してしまった。車にしめ飾りを付ける習慣も日本独自のものとしてあったが、これも10年以上前に消滅してしまった。まだ門松などを飾っている家やビルも多いが、これもいつまで持つものかわからない。デパートも含めて多くの店はかっては三が日は休むのが通例であったが、最近ではデパートも正月から開いている。

その点、まだまだシンガポール旧正月ではそのような急激な変化は見られない。シンガポール旧正月は中国系の人たちにとっては一年で最大のお祭りである。正式の休みは二日間。今年はそのうちの一日が日曜と重なったので、その分が火曜にずれ込み四日連続しての休みとなる。もっとも中国系の人たちは、その後の一週間は休みを取るという人が多い。

村上春樹の小説を読むために、帰国している間に本屋で彼の小説をいくつか買い込んだ。週末などにまとめて読もうという訳である。早速「海辺のカフカ」にとりかかったが、大阪からシンガポールへの飛行機の中などで、おおかた読み終えてしまった。またその読後感はこのブログで書こうと思っている。

ところでこのブログでいろいろな本の読後感・感想文を書いて来たが、現代文学に関する感想文が全くなかった事に気付かれた方もいるかもしれない。事実その通りである。「源氏物語」などの日本の古典文学や、「イリアス」などの西洋の古典文学はかなり読んで来たつもりだけれども、近代文学現代文学は全くと言っていいほど読まなかった。どうしてだろう。

大学の学生時代は小説は浴びるほど読んだ。特に西洋文学を熱心に読んだ。私の大学時代は多くの書店が西洋文学全集を競うように出版していた時代であり、私も書店でそれらの本を購入して夢中で読んだものである。また大学では文学論を戦わす相手には事欠かなかった。もっとも、工学部の学生で文学が好きだという人間はそれほどいなかったこともあって、文学論を語り合う相手は文系の学生の場合が大半だった。私の大学時代の付き合いはどちらかというと文系の学生が多く、工学部の学生としては少し片寄っていたかもしれない。

卒業して企業(NTT)に就職してからは、回りの工学部出身の技術者・研究者たちは全くと言っていいほど文学には興味が無いように見えた。従って彼らと文学論を戦わす訳にも行かないため、意識的に文学書に近づくのを避けはじめたのかもしれない。もっともこれは当時の私の独断であって、工学部出身でも文学に興味のある人が多い事は後で知った。とはいいながら、工学部出身者達との話題で文学が出る事はほとんどないため、興味を持っている人達も私のように意識的に文学関係の話題は避けていたのであろう。

ということで大学を卒業して以来、近代・現代文学というものには意識的に近づくのを避けて来たのかもしれない。もっとも、SFは別である。SFは、新しいサイエンス・テクノロジーとそれが実現する未来が描かれている。さらにはそれを背景とした人々の考え・行動・関係が描かれている。サイエンスと文学の両方の要素を持ったものとして、私は大好きである。ハヤカワSF文庫は一時は大半を買い込んでいたものである。また、現在はなくなっているがサンリオSF文庫というのが出版されており、これもかなりを買い込んでいた事を覚えている。一時は私の四畳半の書斎の周囲全面の書棚が、SFで埋め尽くされていた時代もあった。

いずれにしても近代文学現代文学からは離れて久しいのに、今頃になってなぜ村上春樹の小説を読む事になったのだろう。それだけ彼の作品が魅力があるからといってしまえばそれまでであるが、それならば何が彼の小説の魅力なのだろう。それを彼の小説を読む事によって、自分なりに納得できる解を得たいというのが一番の動機かもしれない。