シンガポール通信ーリドニー・スコット監督「プロメテウス」2

プロメテウスはよく知られているようにギリシャ神話に出てくる神であり、ゼウスの意思に逆らい人類に火を与えた事で知られている。火を与えるという事は、それに伴って生じる人類の進歩につながる訳である。その意味で、知的な生物としての人類を作り出したのはプロメテウスだといっていいであろう。

それがこの映画のタイトルに使われているという事は、知的生命体としての人類の起源を探るという意味を、この映画に持たせている事になる。人類の起源というのは、なぜか人々の特に西欧の人々の想像力をかき立てるものらしい。前回も述べたが、「2001年宇宙の旅」を始めとして人類の起源をテーマにした映画・小説はかなりの数存在するのではないだろうか

しかし不謹慎かもしれないが、私に取っては(そして多分多くの日本人に取っても)人類の起源というのはそれほど重要もしくは深刻な問題とは思われない。というのも、私たちの大部分は人類は地球上の生命体の1つであり、進化の法則に基づいて進化して来た結果として知性を持つようになったのであって、何も地球外のどこかの星にその起源がある訳ではない事を当然と思っているからである。しかも地球上の生命も、長い地球の歴史の中で偶然かもしれないが生命を持たない物質から生まれたものである事を当然と思っているのではないだろうか。

したがって知性を持った生命体としての人類の起源を地球外に求めようとする考え方には、それほど興味を引かれないのではないだろうか。第一人類の起源を地球外のどこかの星の知的生命体に求めようとすると、その知的生命体の起源は何処にあるのかという問いに答える必要が出て来る。これはいつまでたっても堂々巡りの終わりの無い問いであって、その事はそのような問いそのものが意味を持たない事を示している。

しかしどうも西欧の人たちはそのようには考えないものらしい。これはなぜだろうと考えると、やはりキリスト教の影響が大きい事がわかる。つまりそのような考え方の起こる元を突き詰めて行くと、キリスト教の基本にある神が人間を作り出したという考え方に行きつくからである。人間を作り出したのが神であるとすると、それではその神は何処から来たのか、もっと卑近な言い方をすると神を作り出した存在は何かという問いに行き着く。

本来は神は絶対的な存在であって、それが何処から来たかとか何によって作り出されたかというのは問うてはならない問いではなかろうか。ところが西欧の論理的もしくは科学的な考え方になれていると、どうしてもそのような問いが出てくるのであろう。このキリスト教の教義と科学的考え方が同居しているというのは、西欧においてなぜそれが成り立っているのかという1つの不思議な部分である。

ともかくも本来は問うてはならないタブーであるが故に、西欧の人々はそのような問いに惹かれ、それを題材としたストーリーが繰り返し描かれるのであろう。どうもこの辺りは、無意識にせよ基本的には東洋的思想に染まっている私たち日本人からすると、いまひとつ興味をもたない部分である。「プロメテウス」が日本ではあまり話題にならなかったのは、そこに理由があるのではあるまいか。

他にもこの映画には、今ひとつ納得できない部分が多い。たとえばデイヴィッドと呼ばれる精巧なヒューマノイドロボット(もしくはアンドロイド)が出て来るが、このような人間並みの知性を持ち人間と同様に見えるヒューマノイドロボットは当面は技術的に実現不可能であると考えられる。また洞窟内を自在に飛行しかつスキャンし、洞窟の3次元モデルを作り上げる球体が出て来る。スキャンする機能は現在の技術でも可能かもしれないが、この球体はどのようにして飛行しているのだろうか。その飛行エネルギーは何処から得ているのだろうか。

しかもそのような一方で、このような進んだ技術を持ちながら、訪れた惑星で出会う生命体になんの危機感も持たずに単純に近づこうとする探検隊の面々の単細胞的な考え方も不自然である。「プロメテウス」は、このようないわばバランスの悪さが随所に目につく映画である。リドニー・スコットも年を取ったという事だろうか。それとも彼はそのように観客に思われるように意識的に映画を作っているのだろうか。