シンガポール通信ー楽天の社内公用語英語化を考える2

楽天が宣言した社内公用語英語化が、実際に実施しようとすると極めて困難な事であることを前回指摘した。もちろん、このような困難な試みにチャレンジする事事態は賞賛されるべき事であろう。しかしながら、 会社という経営の効率化が常に求められている組織において、それが本当に実現可能なのだろうかという疑問を誰しも持つ。それとも楽天という会社の日常の業務を進めるにあたって、公用語を英語にすることは、それほどまでに必要性に迫られていることなのだろうか。

さらに読み進めて見よう。そうすると、同様に興味深い文章に出会う。島田氏は英語を公用語として導入した理由を「企業が国内市場だけで生き延びる事は困難だろう....海外に目を向けるのは当然の流れといえる...世界の企業と対等に渡り合うつもりであれば、ビジネスの共通語である英語の能力は必須になる」と述べている。

これ自体はその通りであるだろうが、どうもこの文面からすると楽天は必要に迫られて社内公用語を英語にしているわけではないようである。つまり現在英語でビジネスをすることが必要であるから社内公用語を英語にするのではなく、将来の会社の国際戦略のために社員が英語を使いこなす事が必要だから皆に英語の能力をつけされる必要があると考えているのである。

現実の必要性に迫られて社内公用語英語化を進めているのではなく、楽天の将来戦略の実現に向けて社員に必要な能力を付与すると言う観点から考えた場合に、もっとも必要なのが社員が英語でビジネスを遂行する能力を持つことが必要であるから、それを付与するというのが楽天の考え方なのである。

これは別に間違っている訳ではない。いや逆に長期的な会社の戦略に基づいて必要な施策を早期に導入しているという意味で賞賛すべき事なのかもしれない。しかしもう少し考えてみよう。

楽天のように将来戦略としてではなく、現時点で海外に進出し国際企業として活躍している日本企業は既に数多くある。車のメーカーや家電メーカーなどがその代表であろう。これらの企業は海外進出にあたってどうしているか。車内公用語を英語に統一しているか。そんな非効率的なことはしていない。

海外に進出する場合、例えば海外に工場を建設する場合は、労働者に関しては現地採用をするのが普通である。そしてその労働者を直接監督するマネージャーも労働者とのコミュニケーションの取りやすさなどを考慮して現地採用するであろう。そしてそれらのマネージャーを統括する上位マネージャーを日本から派遣するというのが通常であろう。そして日本本社とそれら送り込まれた上位マネージャーのやり取りは日本語で行う。

そして当然日本本社内部の業務は日本語で行う。最近であれば取締役やときにはトップが外国人の場合もあるから、彼等が参加する社内会議は英語で行われるであろう。しかしこのような会議に出席するクラスの日本人であれば、ビジネス英語を使いこなすことはできるから、特に問題はないであろう。つまり必要に応じて、必要な部分だけに公用語英語化を実施している訳である。これが通常の国際ビジネスの進め方であり、海外の国際企業のビジネスの進め方もほぼこれに近いものである。

それらの実際的な進め方に対し、楽天という現時点では日本国内を主マーケットとする企業がその将来的な国際戦略のためとはいいながらいきなり社内公用語英語化をいいだすから奇異に受け止められるのである。

これまで述べて来たことからも、日本企業が本当の意味で社内公用語英語化を実施することは極めて困難であるし非効率であることは明らかである。それをいきなり実施したら楽天の社内業務はストップするであろう。

ということは、混乱なく英語を業務に取り入れるためには、楽天の社内公用語英語化は極めて限定されたものにならざるを得ないということになる。楽天の社長が社内向けの訓示などを英語化したと言うことを聞いたが、これなどはもっとも容易に実現できることであろう。その次はどうするか。会議の一部を英語化することであろう。

会議でも情報伝達の部分は、英語化は比較的容易にできる。その次は英語でのディスカッションに進みことになるであろうが、先にも述べたように会議を本当の意味での意志決定の場ととらえると、そこに英語を導入することはかなりハードルが高い。徐々にということになるだろう。

ということはどういうことか。つまり楽天の社内公用語英語化の実体は、将来の国際展開をにらんで社員の英語によるビジネス遂行能力を伸ばすための訓練ということと理解して良いであろう。何のことはない、会議の場を使ってビジネス英語教育を行おうということである。

何度も言っているが、それ自体の試みは決して悪いことではなく賞賛されるべきものである。しかしそれなら他の企業も社内訓練などの形で既に取り入れていることではないか。したがって、その試みは「社内公用語英語化」などと呼べるものではない。たかだか、「将来の国際化をめざした会議などの社内業務の一部を英語で進める試みの開始」とでも言うべきものである。今のままでは、一般の人たちに紛らわしい印象を与えるだけであろう。いや一般の人たちはもうとっくの昔に感づいていたというべきか。