シンガポール通信ーいじめ

いじめ

私の小中学時代の転校の多い経験を書いたら、読者の人に「いじめ」にあっただろうからその経験を書いてほしいとの依頼があった。そこで今日はその話を。

いじめと言えば、皇太子夫妻の一人娘愛子様がいじめにあったというニュースがしばらく前に話題になった。いじめというのは、「弱いものいじめ」等の言葉にもあるようにある種陰湿な響きを持っているから、愛子様がいじめに合っているというニュースは、多くの人々にとってある種衝撃的だったのではあるまいか。

衝撃的だったのは、事の真相は別として皇室に属する子供がいじめにあっているというニュースが、かっては神聖化されていた皇室といじめといういかにも現代的な出来事が結びついたことによるだろう。かっての日本だったら、そのような事件は覆い隠されて報道されなかっただろう。いじめをした側の少年は他の学校に強制的に転校させされるなどでの措置がとられただろう。
と同時にその衝撃には、日本の皇室も一般庶民と変わらないレベルになって来たのかという感慨も含まれているのだろう。そういう意味では、皇太子妃の雅子様神経症の話も衝撃的であった。天皇は戦前は神であったから、将来は神になる人の奥様が神経症というのは何ともミスマッチで、最初の反応としてはどう言っていいかわからないというのが人々の正直な感想だろう。

まあ、これらのニュースが正直に流れるというのも、平和な国日本の現状を表しているようで、結構といえば結構なことである。

さて、私の経験に話を戻そう。答えを先に言ってしまうと、私自身はいじめにあったという経験はない。私自身は小学校時代に3回、中学校時代は1年単位で2回の転校を経験している。小学校2年までは祖父母のいる兵庫県で暮らし小学校3年のとき両親と一緒に暮らすため鳥取県倉吉市へ転校し、父親の転勤に伴い小学校5年で石川県小松市、さらに中学校2年で新潟県村上市へと移った、さらに中学校3年で再び祖父母のいる兵庫県へもどるという、いわば慌ただしい小中学時代を過ごした訳である。

そういえば、日本海側を鳥取県から新潟県まで北上して行った事になる。日本海側は太平洋側に比較して暗いイメージがある。川端康成の小説「雪国」にあるように「国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国であった」というのは、私自身も祖父母のいる太平洋側の兵庫県日本海側の鳥取県を何度も行き来して実感した事のある風景である。

しかし、日本海側が持つ暗いイメージとは別に、私はいじめにあった記憶はない。転校の初日の記憶ももうかなり薄れてしまっているが、先生からクラスの全員に紹介されて自分の座席を指定されそこに着席すると、周りが興味津々で私の方を眺めているのがわかったし、休み時間にはむしろ周りの方から私に近づいて来ていろいろと質問をされたなどの経験がおぼろげに記憶に残っている。

子供というのは好奇心の強い生き物なので、新しい出来事や転校生などには基本的には興味を持つものである。ただ、その興味が時によって正に振れたり負に振れたりするのだろう。正に振れると友達として新しい仲間を受け入れる事になり、負に振れるといじめなどの行為に走るのだろう。

この基本行動原理は昔から変わらないのではあるまいか。たしかに私の記憶でもクラスの中にはいじめられやすい(というよりは仲間はずれにされやすい)生徒というのはいた。したがって、むしろ問題は正に振れるのと負に振れるのとの境界がどこにあるのかであり、そしてその境界が昔と今とで変わっているかどうかという問題であろう。

その境界が、昔の方が現在より負の方に振れにくかったのは確かであろう。その理由は多分、子供達を評価する軸が複数あったことによるのではあるまいか。わんぱく坊主は、勉強ができなくてもそれはそれなりに評価され、遊びの場面ではリーダーシップを発揮できた。またスポーツの出来る子供は、普段の休み時間のソフトボールなどでは目立っていたし、運動会などでは父兄の前で鼻高々であった。

勉強ができるというのも確かに評価軸の1つではあったが、それはあくまで評価の1つに過ぎなかった。いやむしろ、目立つか目立たないかという意味では、勉強ができるというのは目立たない評価軸であり、女の子にもてるための評価軸ではなかったのである。

私は成績はいい方であったが、スポーツはからきしだめであったし、わんぱく坊主のようなリーダーシップがあった訳でもない。ブログにも書いたが、そのために女の子に持てないというコンプレックスに悩まされたものである。逆に勉強がある程度出来たからこそ、そのコンプレックスもあるレベルにとどまっていたのである。

かっては、それぞれの子供が自分の得意とする分野を持ちそれを自負する事が出来た。ところが現在では、成績の良し悪しという1次元の軸上に子供達が射影されてしまい、それ以外の評価がされないのではあるまいか。

そうするとわんぱく坊主としては評価される場面がなくなってしまう。自分を認めてもらいたい、自己主張したいという思いが、他人を不当に低く評価する、すなわちいじめという行動に走らせているのだろう。