シンガポール通信ー赤軍派

先週から今週にかけてずっと仕事が立て込んでいて、ブログを書く時間を取れなかった。今日は久しぶりに私の学生時代の話を。


私が京大の修士過程の学生であった時代は、ちょうど大学紛争の最中であった。大学の構内は立て看が所狭しと並び、あちらでもこちらでも学生がアジ演説をやっている。その側では、ヘルメットにゲバ棒を持った学生が我が物顔で構内を闊歩していた。

大学紛争の先頭に立っていたのは、全共闘と呼ばれる一種の学生の共同体であるが、内部では共産党系の組織とそれ以外の組織との反目も強く、内ゲバと呼ばれる全共闘内部での権力争いも激しかった。

そして、一部の急進的な学生達は赤軍派と呼ばれる組織を作り、全世界革命なるものを唱えて、過激な活動をするようになっていた。私の友人のOも赤軍派の一人であり、かなり指導的な立場にあると噂されていた。

友人といっても、講義の1つである実験を行う同じグループに属しているというだけの間柄であったが、時折話をしたり学食で食事をしたりはした。

彼はどちらかというと地味でおとなしいタイプの学生であり、私と話をするときにも学生運動の話が出ることはなく、私を赤軍派に誘うような言動もなかった。ただ、実験の手法などに関し自分の考えが正しいと思うと、指導教官に対してもくってかかるという頑固で激しい気性の部分もあった。

時折彼がアジ演説を行っているのに出会ったことがあるが、普段の地味な性格とは反対にきわめて情熱的な演説であり、正直言ってかっこよく見えたものである。学生運動の仲間の中では女性に結構もてるという噂も聞いた。かっこいい演説と女性にもてるというそれだけでも学生運動に参加してもいいなどと、軽薄な考えが頭に浮かんだりしたものである。

とは言いながら私も就職が決まり、卒業の時期が迫って来た。私も含め大半の学生は、いわゆる「ノンポリ」と呼ばれる集団で、学生運動を遠巻きに見ているだけであった。それでも時代の空気か、大企業や政府関連の機関に就職することに背徳的行為をしているような後ろめたさを感じており、友人同士でジャンケンをして就職先を決めるというようなことをやったものである。

さてそのようなある日、当時の女友達を連れて大学構内を案内がてら散歩したことがある。すでに大学紛争は峠を越えていたが、相変わらず構内はある種の殺伐とした雰囲気が残っていた。私は つい最近まで学生達によって行われていた封鎖の跡が残る構内を、彼女に自慢半分で説明しながら歩いていた。

その時、向こうから自転車に乗ったOが来るのが見えた。私は彼女を連れていたこともあり照れくさかったので、声をかけることはせず軽く片手をあげて彼に挨拶をした。彼も私の気持ちがわかったのだろう、にやっと笑うとほんの軽く片手を自転車のハンドルから離して私に挨拶した。

それが彼を見た最後であった。私は4月からNTTに就職し東京のNTTの寮で生活することとなった。数ヶ月したある朝母からの電話でおこされた。「今朝の新聞を見てごらん」と興奮した声である。

新聞を開いてみると、テルアビブ空港に日本の赤軍派のグループがテロ攻撃をかけ、空港にいた一般の人たちを殺害したこと、そして攻撃をかけた赤軍派からも何人かの死者が出たことを報じていた。Oはグループのリーダーで、彼も死亡者リストに載っている一人であった。

驚いたが、同時にこのような事件の起こることを無意識に予感していたことも事実である。今では考えにくいことであるが、このようなかっこいい死に方をしたいものだという考えが一瞬ではあるが頭をよぎった。後にグループの一人で生き残った岡本公三が、「我々は死んでオリオンの星になろうと誓った」と述べたことが新聞に載っていたが、やったことの是非は別として、一度はこんなきざな文句をはいてみたいものである。

今でも、当時の同期の友人達との同窓会では時々Oの話が出る。皆一様に、「そういえばそんなことがあったなー」という一種の感慨のような感覚を持つと共に、遠くを見つめるような顔つきになる。