シンガポール通信ー不敬罪

天皇誕生日も過ぎてしまったが、現平成天皇に関する話題。

天皇の皇太子時代のご成婚の話を書いたが、我々の世代にとっては現天皇はむしろ皇太子時代の印象の方が強い。私がNTTに勤めていた1980年代に(詳しい年は忘れたが)、一度だけ現天皇、当時の皇太子から声をかけてもらったことがある。当時私は音声認識の研究に従事しており、音声日本語ワープロの研究開発を行っていた。

これは音声によって入力の出来る日本語のワープロである。キーボードによる日本語の入力は、当時はまだ大きな問題であった。もちろん現在と同じキーボード入力+仮名漢字変換を用いて日本語を入力する方式は確立しており、その方法で日本語の入力を行うことは出来た。

しかし、一般の人々はまだキーボード操作に慣れているとは言えず、効率的な日本語入力法として、音声での入力が可能となれば、音声認識機能を用いることにより、日本語ワープロへの入力が容易になり、ワープロが普及するだろうと期待されたのである。

ちなみに、今ではキーボード入力にほぼすべての日本人が慣れており、特に若者は携帯電話の小さくかつキー数の少ないキーボードを用いて高速に日本語の入力が出来るようになっている。こうなるとは当時の技術者は私も含めて予測できなかった。情報技術(IT)は、それをユーザがどう使いこなすかということと深く関係しているため、技術の観点からだけではあまり先のことは見通しが出来ないのではないだろうか。未来学が最近はやらない理由か。

それはともあれ、我々は開発した技術に基づき、某メーカーに依頼して音声日本語ワープロの試作機を開発した。たまたま先端技術の展示会があり、そこに我々の試作機を展示することとなった。そして当時の皇太子と美智子様が来場されることとなったのである。

我々は上司も含めて大変張り切った。もしかしたら皇太子に声をかけてもらう気会があるかもしれない。我々は張り切って 展示会のための 準備を進めた。他にも多くの機器が展示されているので、デモを行う可能性は少ないだろう。しかし、万が一に備えて私が入力の担当(つまり入力内容を発声する担当)として、何度も発声の練習をしたものである。

さて、準備が整い遅刻をしてはいけないというので、前日は展示会場に30分以内で行くことの出来るNTTの寮に私を含めて4人の展示担当者が泊まり込むこととなった。ところが偶然ではあるが、その顔ぶれを見るといずれも私の麻雀仲間である。毎週のように週末徹夜で麻雀を打ち合っている仲間である。大切な日の前日とはいえ、せっかくの機会なので麻雀をやらない手はない。ということで、夕食後時間つぶしの意味もあって麻雀を打ち始めた。

ところがいずれも麻雀気違いである。そのうちに、翌日は重要な日であることが徐々に意識からは薄れて行き、麻雀に熱中し始めた。そして、はっと気がつくとなんと10時間近く経過しており、展示会の当日の朝8時である。集合時間は9時。我々は大慌てで荷物をまとめると会場に向かった。

なんとか集合時間には間に合い、皇太子、美智子様の来場の時間である。我々は緊張してお待ちした。いよいよ新聞やテレビなどで見慣れたお二人が遠くの方から近づいてこられるのが見える。もちろん時間のこともあるのだろうが、ほぼ会場内を左右を見ながら通り過ぎられるという感じである。我々の日本語ワープロの前を通り過ぎられようとするとき、私は意を決して、「音声で入力する日本語ワープロです」と声をおかけした。皇太子は我々の方を見て軽く会釈され、「そうですか」とおっしゃって通り過ぎられた。

デモをする機会はなかったとはいえ、展示としては大成功である。我々は大喜びで「やった」と言い合ったものである。そばで見ていた上司も「よしよし」という表情でねぎらってくれた。ところがそのうちに上司が私の顔をじっと見始めた。どうしたのかなと思っていると、「おい、ひげがそってないぞ。」しまった、直前まで麻雀をしていたのでひげを剃る時間がなくて、無精髭のままで皇太子夫妻に声をおかけしてしまったことになる。もちろんそのことは上司には言わなかったが、「戦前なら不敬罪で引っ張られるぞ」と上司からはさんざん嫌みを言われた。今でも毎年、天皇誕生日には思い出す出来事である。