シンガポール通信ー一期一会そして無常観1

小学校の高学年の頃であったと思うが、ある時街を歩いていて多くの人たちとすれ違ううちに、ふっと「この人たちとは自分の人生でもう二度と合うことはないのだな」という考えが頭にひらめいたことがある。その時は、これをうまく言い表す言葉を知らなかったので、何となく物悲しい感覚を味わったに止まった。しかしそれと同時に、人生の真実の一端に触れたという感覚を持ったこともおぼえている。

その後、「一期一会」、「無常観」などの言葉に出会い、あの時に感じたのはまさにそのような言葉で表れされるものであることを納得した。一期一会は日本人の生み出した言葉であるが、そのもとなるのはやはり仏教における無常観であろう。ご存知のように、無常観は仏教の基本的な思想である。しかしながら、日本における四季の移り変わりと強く結びつくことによって、日本人は日本に独特の無常観を作り上げて来たのではないだろうか。それは、すべてのものが幻のようなもので過ぎ去り滅び去っていくという、いわば諦念と結びついた感覚である。

悟ったという言葉の意味が日本ではあきらめたという意味に使われることが多いのも(例えば、「私にはこれを実現出来る力がないことを悟った」等の使い方に見られるように)、無常観と諦念の結びつきによるところが多いと思われる。しかしながら、本来悟りはすべての迷いから脱却したという意味であり、きわめて力強い意味を持つ言葉のはずである。

平家物語の冒頭の有名な「祇園精舎の鐘の声」から私たちが連想するのは、あくまで日本の寺院の鐘であって、決してインドの本家本元の 祇園精舎の鐘ではないであろう。(大体、祇園精舎に鐘があるのかどうか怪しいものである。)その意味で、悟り、無常観などの仏教思想に対して私たちが持っている理解も、本来の仏教思想とは異なるものが多いのではないだろうか。今回のタイでの国際会議に招待された機会に、このようなことをタイの大学の先生方と議論したいと考えていたのであるが、昨夜は地元の大学の先生方や学生達とカラオケで大騒ぎをしてしまい、実現しなかった。やはり凡夫の凡夫たるゆえんである。

同時に、日本人独自の無常観に対して桜が持つ影響もきわめて大きいと思われる。若い頃には桜の花の華やかな面にのみ興味が向いていたが、最近は無常観と桜の結びつきが理解できるようになった。桜の盛りは1週間程度といわれるが、観察してみると満開になると同時に散り始めるわけであり、実は本当の意味での満開はほんの1日か2日である。この満開になると同時に散り始めるという桜の特徴は、いかにも日本人の美意識と良くマッチしている。というよりは、桜が日本人の美意識を育て上げたと言っても良いのかもしれない。散り始めた桜の下を歩いていると、なんとはなく涙が出てくる。桜を見て涙するというこの感覚もいかにも日本的美意識である。

このような美意識はやはり日本人に独特のものであろう。シンガポールでは、種類にもよるがほぼ一年中咲いている花もある。そして気候も、夏と冬の間の微妙な違いはあるものの、平均的に見ればほぼ一年中同じ気候である。今日と同じ天気が、ということは今日と同じ日が明日も期待できる訳である。前にも書いたが、そのような国では確かに日本的無常観というのは生じ難いし、また理解し難いのではないだろうか。

もっとも、シンガポールでも夏と冬で微妙な気候の違いはある訳なので、この微妙な違いを感じ取る別の感性が育っている可能性もある。シンガポールは新しい都市であり国なので、そのような感性はまだ育っていないかもしれない。しかし東南アジア、例えばタイも良く似た気候である。タイは有数の仏教国であり、人々の顔を見ているとお釈迦様に通じる柔和な顔をしている人が多い。日本人とは異なるのかもしれないが、タイ人独特の感性というのは確かに存在しているのではないだろうか。