シンガポール通信ー年をとるということについて2

(前回からの続き)

源氏物語などの古典を読んだときに感じた驚きと同じものを能や歌舞伎を鑑賞する場合にも経験した。数年前に京都の南座で顔見世を鑑賞したことがある。歌舞伎の鑑賞は学生時代以来である。学生時代友人と歌舞伎を見に行って何が面白いのかさっぱりわからなかったが、面白そうだというので掛け声を適当にかけて、周囲から冷たい視線を浴びたことがあるが、それ以来の歌舞伎である。

さてそこで我ながら驚いたのは、ガイドブックを読まなくても、舞台に集中しているとある程度わかってしまうのである。周囲の人たちの多くは(特に観光各と見られる人たちは)、ガイドブックと首っ引きである。しかし舞台に集中すると、歌舞伎役者の台詞やそこで表現されている感情、さらには感情の絡まった義理・人情という物がある程度分かってしまう。もちろんあらすじは一応知っていた方が良い。私も後で、義経千本桜の1シーンのストーリーを少し誤解していたことに気づいたが、しかし、瞬間・瞬間に表現される日本人独特の感情というものは良く理解できた。

もちろんそれは江戸時代の人々の感情であって、現在の私たちの持つ感情とは異なっている。しかしながら、なるほどあの時代このような場面ではあのように感じたのだなということは理解できるのである。また、感情表現にはかなりの誇張も含まれている。しかしこれも現代のお笑いを考えてみれば良い。漫才師やお笑い芸人は、私たちの日常のある面を切り出してそれを誇張して表現することにより、私たちの笑いを誘っている。つまり私たちはある意味で平らでない(自分の姿を誇張する)鏡に映った自分自身を見て笑っているのである。そしてそれが寅さんの映画や松竹喜劇であれば、時に涙するのである。そしてそれらの笑いや涙がある意味で自分を解放してくれることになる。

多分当時の江戸庶民も、歌舞伎で表現された誇張された日常生活における自分たちの感情、さらには義理・人情にうなづき、笑い、涙したのであろう。とまあ、そういうことを歌舞伎を鑑賞しながら思い、われながらわかっているじゃないかなどと納得してしまったのである。

しかし、これは何だろう。学生時代と現在と何が違うのだろう。論理的思考や直感などは学生時代と比較してそれほど進歩しているとも思えない。学生時代に直感的に感じたことは現在思い返しても間違っていないことが多い。例えば学生紛争の真っ最中であった私の学生時代も共産主義に対しては何か心の奥底で納得いかないことがあった。それが私を学生紛争に積極的に関与するのを押しとどめたのかもしれない。(ちなみに、当時の私の友人の一人はテルアビブで死んでいるし、またよど号乗っ取りに関与してまだ北朝鮮にいるやつもいる。これについてはまた別の機会に述べたい。)そうすると感性的な面での経験の積み重ねが学生時代と今とを隔てているものということになる。年をとるということの意味はこういうところに現れるのかもしれない。

とは言いながらまだ自分でもこれだけの説明で十分納得している訳ではないので、続きはまた別の機会に論じたい。